Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

足助を訪ねて

三河・尾張の旅で、「中馬(ちゅうま)のおひなさん」のまつりで賑わっている足助(あすけ)に、柄澤照文さんを訪ねた。柄澤さんは菅江真澄や松浦武四郎の足跡をたどるスケッチ旅をしたり、全国各地の町並や農村風景などを描いている岡崎(愛知県)在住のペン画家。


柄澤さんと初めて会ったのは今から20年ほど前のこと。柄澤さんが菅江真澄の足跡をたどるスケッチ旅の途中に秋田に立ち寄った際、取材した地元新聞社の記者がたまたま私の知り合いだったため、こんな人がいるよと紹介してくれたのだ。以来、菅江真澄の縁で親しくしてもらっている。私の仕事部屋の机の上には、菅江真澄が青春時代を過ごした岡崎の風景を描いた3枚のペン画が飾られている。10年前に岡崎を訪れた時に柄澤さんからいただいたもので、この絵に囲まれていると真澄がいつもそばにいるような気がしてくる。


足助といっても、東北あたりではピンとこない人が多いかもしれない。市町村合併で今は豊田市になったが、トヨタの企業イメージとは正反対の古い町並が残る歴史の町だ。
江戸時代に尾張・三河と信州を結んだ飯田街道(三州街道)は、三河湾で採れた塩を運ぶ「塩の道」として発達した。足助は塩の道の中継地で、各地から集められた塩の荷をここで解き、俵を包みなおして信州に送ったとされる。また、善光寺詣りの人々の宿場、商業地としても栄え、旧街道に沿って細長く延びた町並には、今も白壁の土蔵や板壁が続く狭い路地、格子窓瓦屋根の商店、旅籠屋などが見られる。


「中馬のおひなさん」は、2月初旬から3月初旬にかけて行われる町をあげての催しで、8年ほど前から始まったという。およそ130軒もの家が、土びなをはじめ御殿かざりや段かざりなど、江戸から昭和にかけて時代ごとに異なるおひな様を公開している。それを観光客が一軒一軒見てまわる。いわゆる町興し、地域興しのイベントだが、東海地方だけでなく関東・関西方面からもたくさんの観光客が訪れ、この種の試みとしては大成功をおさめているようだ。


柄澤さんは旧街道に面した古い民家を借りて、馬のおひなさんを制作し、展示販売しているほか、「中馬のおひなさん」のポスター、看板、パンフレットなども手がけている。1年ほど前には、足助を中心に塩の道をたどった旅の画文集『塩の道旅日記』も出版していて、足助のすばらしさを紹介するうえで、なくてはならない人になっている。


「中馬のおひなさん」の中馬とは、馬の背に塩を載せ塩の道をたどった馬方たちのことで、信州中馬、三州馬稼ぎなどと呼んだという。飯田街道は中馬の道でもある。菅江真澄が北の地を目指して旅立った場所は、三河のどこであるかわかっていないが、私は岡崎ではないかと推測している。岡崎からこの足助を経て中馬の道を北上し、信州へ向かったのではないか。そう思っただけで、初めて訪れた足助がとても懐かしい、特別な町(場所)となった。


・『塩の道旅日記』
http://www.jurinsha.com/sionomiti.html


・中馬のおひなさん(イベント・最新情報をクリック)
http://www.mirai.ne.jp/~asuke/index.html


おひなさんを制作中の柄澤照文さん


柄澤さんオリジナルの馬のおひなさん


足助で今も一軒だけ残る旅籠屋「玉田屋旅館」


「玉田屋旅館」のおひなさん


黒塀と白壁に囲まれた「マンリン小路」


マンリン小路の入口にあるマンリン書店。柄澤さんと仲のいい姉妹が経営している素敵な本屋さん。奥に「蔵の中ギャラリー」がある。


「中馬のおひなさん」の期間中、家々の軒先に飾られる「もち花」

肘折温泉 丸屋旅館

山形県最上の肘折温泉では、毎年10月20日に「なめこ祭り」が開催されている。昨年、たまたま10月19日に「丸屋旅館」に宿泊して翌日宿を出るとき、女将さんから「なめこ汁」無料券を渡されて初めてこんな祭り(イベント)があるのを知った。
会場は「肘折いでゆ館」。なめこ汁を提供する屋外テントは、近隣からやってきた人たちで大盛況。館内では、なめここすくい競技が行われ、こちらも大勢の人たちでにぎわっていた。


昨年で40回目になる伝統を持つというから、肘折温泉のイベントとしてすっかり定着しているのだろう。今年も20日に行われるので、肘折行きを予定している方がいたら、なめこ祭りに合わせて宿泊してみてはどうだろう。丸屋旅館だけではなく、どの宿でも宿泊客には「なめこ汁」無料券、「利き酒」参加券などを配布しているようだ。数種類の銘柄の利き酒してぴったり当てると賞品がもらえるので、酒好きの人は挑戦してみるのも面白い。(私は残念ながらひとつだけ間違って賞品をもらえなかった)


丸屋旅館は昔ながらの湯治旅館だが、若旦那と若女将の趣向が随所に取り入れられ、古さと新しさが適度に調和していて、若い女性でも抵抗なく泊まれる。最近は首都圏や関西方面に熱心なファンが増えてきたというのも、頷ける。


10年ほど前に肘折温泉の紹介記事で目にした丸屋旅館の若旦那のことば。
「カルデラの中にある、どんづまりの温泉が肘折温泉だ。街全体がひとつの旅館で、それぞれの旅館が部屋、道路は廊下、お店は売店だ、と思っている。素朴さと田舎っぽさと生活感のある温泉場が肘折の魅力なんだから、その良さだけは変えちゃいけないと思っています」
肘折には伝統だけに安住せず温泉地全体の活性化に心をくだくこうした若い経営者がいる。それが心強い。

海の湯治場 金ヶ崎温泉

秋田県で古くから湯治場として賑わったところは、主に奥羽山脈の火山地帯にある山の温泉で、海岸地帯はきわめて数が少ない。だから、男鹿半島西海岸に湧く金ヶ崎温泉は貴重な存在だった。だったと過去形にしたのは、50年ほど前までは源泉のある海浜に露天の浴槽と宿舎が設けられ、湯治客が利用していたのだが、現在はそこから約2キロ離れた温泉宿泊施設に引き湯して、それを金ヶ崎温泉と呼んでいるからだ。


東北地方で波打ち際の温泉といえば、青森県の津軽西海岸の不老不死温泉が知られているが、金ヶ崎温泉はもっと原始的で野性味にあふれていた。それにこの温泉は人家から遠く離れた隔絶された場所にあり、断崖を下るか海上から行くしかないため、湯治客の多くは船でやってくることが多かったという。まさに海の秘湯だったのだ。


金ヶ崎温泉にあった宿舎は、北海道のニシン漁で財をなした近くの戸賀集落の網元が大正年間に建てたというもので、6畳ほどの部屋が4つある長屋風、老夫婦が管理人として住んでいた。管理人夫婦が引き払ったのは昭和25年(1950年)ころで、その後もしばらくは放置された宿舎を利用する湯治客がいたというが、嵐などで宿舎が痛み、湯船が崩れるなどして、次第に行く人もいなくなったという。


金ヶ崎温泉は現在も誰でも簡単に行けるところではない。県道脇から釣り人が設置したと思われるロープが下まで伸びているが、急斜面なので成人男性でも細心の注意が必要だ(お年寄りや子どもは無理)。断崖を下りて石がごろごろした浜を入江のほぼ中央まで行くと、波打ち際に四角い井戸のようなコンクリートの露天風呂跡がまだ残っていて、これは県道からも崖下に見ることができる。露天風呂跡ではお湯が今でも自然湧出していて、直径50センチほどの源泉池のようになっている。近くの男鹿温泉に似た黄土色の食塩泉だ。


今年の夏の終わりに久しぶりに行ってみたら、数日前の台風で源泉が砂で埋まっていたが、砂の中からぷくぷくと湯が湧き出ていた。驚いたのは、私のほかにもうひとりこの温泉を目当てにやって来た人がいて、聞けばかつてここで宿を経営していた人のいとこだという。その人は浴槽の砂を手で掘り出して即席の露天風呂を出現させたのだが、泉温が50度くらいあり、熱すぎて入れないので手ですくい浴びるだけで我慢した。


ここに夏の間だけでも利用できる浴舎と休憩施設があったらいい。そして、ちょっとお金がかかるかもしれないが、入江に桟橋を造って、西海岸を運行している島巡りの観光遊覧船が横付けできればどんなにいいことだろう。きっと究極の海の温泉として評判になり、温泉目当ての観光客が押し掛け、下降の一途をたどる男鹿観光の起爆剤になるのではないか…。潮騒を聞きながら、ぷくぷく湧き出る湯を見ていて、そんなことを考えた。


※昭和54年にこの金ヶ崎温泉を引湯して秋田県企業局が「桜島荘」を開業したが、昨年、民間に経営が引き継がれた。旧桜島荘(現「きららか」)に隣接した桜島野営場には無料の露天風呂があったが、現在は閉鎖されている。

成瀬映画に浸かる

今、NHKBS2チャンネルで「成瀬巳喜男映画特集」をやっている。昨年の冬から春にかけて、市立図書館のAVコーナーで成瀬映画のビデオが何本もあるのを発見し、すべて借りてすっかりハマってしまったのだが、まだまだ見ていない作品も多い。全89作品中、放映するのは24作品。このうち『妻よ薔薇のやうに』(1935)、『歌行燈』(1943)、『おかあさん』(1952)、『夫婦』(1953)などどうしても見ておきたかった作品もラインナップにはいっている。
一昨年は小津安二郎の生誕100年ということで、現存する小津映画の全作品が放映され、まさに「小津浸け」となったのだが、今年はこれでどっぷりと「成瀬浸け」。これならすすんで受信料払います。


成瀬巳喜男は「女性映画」の名匠、大家といわれる。女性を主人公にしている映画を「女性映画」というならそれは当たっているかもしれないが、彼は決してフェミニストではなかったと思う。成瀬映画の常連女優、中北千枝子は成瀬は女優を理想化しない、女性に対して冷たかった、と言っている。


印象的なのが『晩菊』(1954)の一場面。永年忘れることのできなかった昔の恋人(上原謙)が、実は金の無心にやってきたことで態度がコロリと変わる高利貸しの元芸者(杉村春子)。女のエゴイズムの描写のその辛辣なこと。女性への視線がベトついていない。冷徹ともいえる。そしてそれに加えて男のみっともなさへの容赦のなさ。成瀬映画ほど頼りなくだらしのないダメな男(亭主)ばかりが出てくる映画もない(まるで自分を見ているよう?)。落ちぶれた元恋人の上原謙なんて2枚目なだけに見ていていたたまれなくなるが、そこには苦いユーモアも生まれる。


かつて暗くて難解といわれていたつげ義春のマンガを「水色のユーモア」と評した人がいたが、私は成瀬映画にもほろ苦く淡い(時にはブラックな)ユーモアを感じる。マンガと映画と表現方法は違っていても、画面(コマ)全体を支配する貧乏の空気感というか、人物のたたずまいが、つげと成瀬は似ている。低学歴で対人恐怖症的なところも。


ネチネチと愚痴を言う登場人物、煮え切らずすっきりしない結末。そんな気が滅入るような辛気臭い映画がプログラム・ピクチャーとしてある程度の観客を動員し、一定の評価を受けつつ作品を撮り続けることができたということ。日本人が普通に貧乏だった1950年代は、日本映画が最も輝いた時代でもある。それは撮影所の映画の時代であり、成瀬映画の傑作はまさしくその時代の枠の中から生まれた。成瀬映画を評し、故・淀川長治氏が「まあ、あんな貧乏たらしい映画なんて」と言ったとか言わなかったとか…。でも、それは今にしてみれば、時代を映した映画に贈られる立派なほめ言葉であるかもしれない。

下風呂温泉 佐々木旅館

ひさしぶりに下北半島の下風呂温泉へ行ってきた。泊まったのは共同浴場の新湯のそばにある佐々木旅館。女将さんと若女将さん(女将さんの娘さん)の2人できりもりしている小ぢんまりした宿だ。


下風呂温泉には十数軒の宿があるが、このうち温泉を引いているのは10軒ほど。源泉は大湯、新湯、海辺地(浜湯)の3ヵ所あり、それぞれ成分(泉質)が異なる。佐々木旅館は新湯を引湯している。3源泉とも硫黄泉だが白濁した大湯とちがって新湯は透明に近く、泉温が高いのでとにかく熱い。ちょっと残念なのは入浴時間は夜9時までということ。おそらく湧出量に限りがあるので、一定量をためてから各旅館に分湯しているからだろう。


共同浴場は大湯と新湯。昔は内湯がなく各旅館(客舎)から湯治客が共同浴場に通ったという。その名残のせいで、宿の浴室はどこもおしなべて狭く、湯船も小さい。全体の雰囲気も、内湯を持たないかつての湯治場-大鰐、温湯など津軽の温泉町に似た匂いが感じられる。佐々木旅館は今も湯治客を受け入れており、湯治料金を設定している。昔と比べると少なくなったが毎年やってくるお馴染みさんもまだいるということだ。


下風呂温泉で自炊をやっている宿はなく、どこも食事に力を入れている。宿泊料金のわりには食事は豪華。ほとんどが海の幸で、それも量がすごい。私などはとても食べきれないほどの量がお膳に並ぶ。温泉宿での食べきれない料理というのは、残すともったいないく、かといって無理矢理詰め込むわけにもいかず、ある意味拷問に等しいところもあって私は苦手(否定的)なのだが(私が自炊部を好む理由もそうしたところにある)、なぜか佐々木旅館の夕食はそうした気持ちがおこらなかった。若女将がお客をもてなし喜ばせるためにと、一品一品心をこめた手作りの味が伝わってきたからだろう(でも、さすがに2品ほど残してしまった)。
つい最近、下風呂温泉では「遊めぐり」と題して各旅館のお風呂をハシゴ(3ヵ所まで、800円)できる遊めぐり手形のサービスを始めた。宿泊客に浴衣を着て下駄を鳴らし、温泉街を歩いてもらいたいということらしい。イカの形をした手形と、下駄のロゴは佐々木旅館の若女将のデザインによるという。なかなかのものではありませんか。