Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

成瀬映画に浸かる

今、NHKBS2チャンネルで「成瀬巳喜男映画特集」をやっている。昨年の冬から春にかけて、市立図書館のAVコーナーで成瀬映画のビデオが何本もあるのを発見し、すべて借りてすっかりハマってしまったのだが、まだまだ見ていない作品も多い。全89作品中、放映するのは24作品。このうち『妻よ薔薇のやうに』(1935)、『歌行燈』(1943)、『おかあさん』(1952)、『夫婦』(1953)などどうしても見ておきたかった作品もラインナップにはいっている。
一昨年は小津安二郎の生誕100年ということで、現存する小津映画の全作品が放映され、まさに「小津浸け」となったのだが、今年はこれでどっぷりと「成瀬浸け」。これならすすんで受信料払います。


成瀬巳喜男は「女性映画」の名匠、大家といわれる。女性を主人公にしている映画を「女性映画」というならそれは当たっているかもしれないが、彼は決してフェミニストではなかったと思う。成瀬映画の常連女優、中北千枝子は成瀬は女優を理想化しない、女性に対して冷たかった、と言っている。


印象的なのが『晩菊』(1954)の一場面。永年忘れることのできなかった昔の恋人(上原謙)が、実は金の無心にやってきたことで態度がコロリと変わる高利貸しの元芸者(杉村春子)。女のエゴイズムの描写のその辛辣なこと。女性への視線がベトついていない。冷徹ともいえる。そしてそれに加えて男のみっともなさへの容赦のなさ。成瀬映画ほど頼りなくだらしのないダメな男(亭主)ばかりが出てくる映画もない(まるで自分を見ているよう?)。落ちぶれた元恋人の上原謙なんて2枚目なだけに見ていていたたまれなくなるが、そこには苦いユーモアも生まれる。


かつて暗くて難解といわれていたつげ義春のマンガを「水色のユーモア」と評した人がいたが、私は成瀬映画にもほろ苦く淡い(時にはブラックな)ユーモアを感じる。マンガと映画と表現方法は違っていても、画面(コマ)全体を支配する貧乏の空気感というか、人物のたたずまいが、つげと成瀬は似ている。低学歴で対人恐怖症的なところも。


ネチネチと愚痴を言う登場人物、煮え切らずすっきりしない結末。そんな気が滅入るような辛気臭い映画がプログラム・ピクチャーとしてある程度の観客を動員し、一定の評価を受けつつ作品を撮り続けることができたということ。日本人が普通に貧乏だった1950年代は、日本映画が最も輝いた時代でもある。それは撮影所の映画の時代であり、成瀬映画の傑作はまさしくその時代の枠の中から生まれた。成瀬映画を評し、故・淀川長治氏が「まあ、あんな貧乏たらしい映画なんて」と言ったとか言わなかったとか…。でも、それは今にしてみれば、時代を映した映画に贈られる立派なほめ言葉であるかもしれない。