Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

一戸町の御所野遺跡

奥州街道に関わる資料づくりのために岩手県北部の一戸町へ。泊まりがけの仕事だったので、ついでに一戸町にある御所野遺跡に立ち寄ってみた。というのも、JR東日本の広報誌「トランヴェール」の最新号に高橋克彦氏が次のように書いていたのを、一戸へ行く前にたまたま読んだから。


「三内丸山は縄文時代の巨大なテーマパークのようであり、大湯ストーンサークルは美しい自然公園のように感じられるが、御所野は縄文時代そのものにタイムスリップしたような気分になる」


駐車場から遺跡に行くには、「きききのつりはし」という屋根の架かった吊り橋(歩道橋)を渡っていく。橋がカーブしていて出口が見えないのが、60年代にNHKで放映されていた「タイムトンネル」のようで、未知の世界への期待感をふくらませる。


御所野遺跡(国指定史跡)は縄文時代中期の大規模な集落群の跡で、広大な跡地は御所野縄文公園として整備され、遺跡の一角には縄文博物館もある。だが今はまだ一面の雪に覆われていて、発掘されたストーンサークルも雪に埋もれていた。


それでも雪原を歩きながら、復元された竪穴住居をいくつか見ることができた。

御所野遺跡では600棟もの竪穴住居跡が見つかり、土を屋根の上に盛ったこのような土屋根住居が全国で初めて確認された。地面を掘りさげて造られた住居の内部は思いのほか広い。
見学者のためなのか(私ひとりしかいなかったが)火が焚かれていて、その煙に反応するかのようにひとすじの陽光が住居内に差し込んでいた。

毎年恒例の愚痴

例年、年度末になると仕事が集中する。時間的余裕のあるうちに計画的に片付けておけばいいのだが、それができず、毎年同じようにあたふたとして、パニくってしまう。自分の怠け者体質というか、自己管理能力のなさに加えて、最近は年ごとに仕事の能力が落ちていくのを感じる。40代の半分くらいに落ちているのではないだろうか。
と、こうした愚痴をこぼすのも毎年のことで、昨年のブログにも似たようなことを書いているのが、情けない。


一番感じるのは、集中力が続かないということ。頭の中でものごとを整理して、考えをまとめたりすることがうまくできなくなってきた。それと、もの忘れも激しく、特定のことば(人名地名などの固有名詞)がなかなか出てこなかったりする。2週間ほど前に行った講演では、ある雑誌名と人名が記憶からすっぽり抜け、しばし沈黙してしまったし(こんな時はあわてる)、あとで録音したテープを聞いたら、八代将軍の徳川吉宗を「宗吉」と反対に呼んでいた。きっと聴講者はシラケたことだろう。


でも、こうしたもの忘れや記憶違いは、何も私だけでなく歳をとれば誰にでもあることなのかもしれない。日本国の首相が漢字を正しく読めないのを、マスコミがこぞって非難しているが、それは人格や政治能力とは関係ないことだ。そんなことで揚げ足取りする以外に、もっと伝えるべきことがあるだろうに。
とはいっても、あとで気が付いた漢字の読み間違いは、恥ずかしくていたたまれなくなる(本人が)。私は促すをつい最近まで「そくす」と読んでいて、公の場でも何回か喋っている。そんなことで人格まで否定されたくはないが、時間を逆戻りさせたい気持ちになることは確かだ。

Saltans of Swing(悲しきサルタン)

今月初めにNHKBSで放映していた「みんなロックで大人になった」の再放送を見ている。イギリスBBCが独自のアーカイブを大量に使い、1960年代から現代に至るまで、“ロック”が時代の流れの中でどう変化し、社会に影響を与えていったかを「アート・ロック」「パンク・ロック」「ヘビィ・メタル」などジャンルごとに描く7回シリーズで、第5回目のきょうは「スタジアム・ロック」というテーマだった。


ロックに限らずジャンルというのは後付けのものが多いし、定義もあいまい。それにこの番組、BBC制作だけあって、ロックのジャンル分けというか括りかたがかなり個性的(独善的)で、取り上げるミュージシャンも偏っている。まあ、そこが面白いといえば面白いんだけど。


「スタジアム・ロック」というのも、あまり耳慣れないことばだな、と思ったら、野球場やフットボール場などのスタジアム、大規模な会場でライブをする(社会的にも商業的にも)成功を収めたバンド、ミュージシャンのことだった。ちょっと意外だったのは、クィーン、レッドツェッペリン、ブルース・スプリングスティーン、ポリス、U2など70~80年代ロックの大御所たちに混じってダイアー・ストレイツ(Dire Straits) が紹介されたこと。このバンドをスタジアム・ロックとして括るには地味すぎやしないか?


ダイアー・ストレイツにはちょっとした思い入れがある。1970年代の中ごろは、あちこち引っ越し歩く行方定まらぬ生活をしていたので(当然、プレーヤーも持っていなかった)、新譜レコードを買うという行為にしばらく無縁だった。旅暮らしから戻ってきて仕事を見つけ、アパートを借りて暮しはじめたのが、1979年の冬。そのころ発売されたこのバンドのデビュー・アルバム「ダイアー・ストレイツ」が、ラジオでかかっていたのを偶然聞いた。シンプルなギターサウンドと、J・Jケイル風味というか、ボーカルの唄い方がボブ・ディランそっくりなのが気に入ったのだと思う。最初の給料でひさしぶりに買ったレコードが、このアルバムだった。


アルバムにはダイアー・ストレイツを有名にしたヒット曲「Saltans of Swing(悲しきサルタン)」が入っていた。マーク・ノップラーの当時では珍しいフィンガー・ピッキング奏法とディランにクリソツな声が(どう見てもダイアー・ストレイツ=マーク・ノップラーだね)個性的でかっこよくて、30年前の曲だが、今聴いても色褪せていない。



Dire Straits - Sultans Of Swing


それにしも、ロックというのは、幼児性丸出しの音楽という気がする。その剥き出しさ加減がヒリヒリするほど痛々しくなった時がそのジャンル(バンド)の絶頂期であり、終焉でもある。
この番組を見た感想を記したあるブログに、“「みんなロックで大人になった」って釈然としないタイトルですけどね。どうせなら「みんなロックで子供のまま」とかねw”と書いてあったのだけど、確かに…。

落ち葉のアルバム

ちょうど1か月前(ということは、昨年の話になるが)、群馬県に住んでいる友人を訪ねた。友人は私よりひとつ歳が下で、年齢より若く見える。だが、寄る年波には勝てないようで、目尻のシワが目に付くようになり、最近はオシッコの出が悪くなってきたとぼやく(私ほどではないが)。頭髪も薄くなってきたようだ(これも私ほどではないが)。
永遠の少年のような趣があった彼も、歳を取るんだな、と思うと、不思議に安心した心持ちになった。


群馬の友人は85歳になる御母堂と暮らしている。友人宅でその御母堂がつくった「落ち葉のアルバム」を見せてもらった。
近くの公園などを散歩した時に拾い集めた落ち葉をスクラップブックに貼ったもので、4冊あった。
落ち葉からその植物(木)を調べて名を記すというわけでもなく、ただランダムに(でもその並びは美しい)貼られた落ち葉たち。そのシンプルさが素敵だと思った。
友人の母に対しこんなことを言うのは失礼かもしれないが、この方は心のきれいな人、純粋な人だと思った。


今は誕生日ごとに歳をとる「満」で年齢を数えるのが一般的だが、私が子どものころは正月が来る(年が改まる)と歳を取る「数え年」もまだ普通に用いられていたように思う。
私は今年数えで58歳。若いころは60歳を超えた自分というものを全く想像できなかった。


でも、今は20年後の老年の自分をイメージすることができる(それまで生きていたらの話だが)。前立腺肥大で小便をちびらしながら、妻はどうしているだろうかと、想いをめぐらせつつ、ひとりで海辺の町(太平洋側の老人介護施設の可能性あり)で過去とともに暮らしている…という。友人の御母堂や一昨年に亡くなった私の母のような、大正生まれの女性の優しさ・強さ・潔さを持った老人とはほど遠い情けなさだが、実はこれは結構マジな私の願望なのである。


なんか、新年最初のブログでするような話ではありませんでしたね。

銭川温泉のおばあちゃんが亡くなった

鹿角市八幡平の湯治宿「銭川温泉」のおばあちゃん阿部ツマさんが亡くなったことを、偶然アクセスした八幡平在住の方のブログで知った。亡くなったのは10月というから、すでに2ヵ月が経っているが、ひとことお悔やみを述べたくなり、やり残していた鹿角市の街道調査の取材のついでに、銭川温泉まで足を伸ばした。


私がツマさんに初めて会ったのは、1986年の春。温泉ガイドブックの取材で訪れ、一泊した時だった。この時に触れたツマさんの人柄、湯のよさ、宿の素朴であたたかな雰囲気が気に入った私は、愛してやまない八幡平の湯宿のひとつとして、その後も何度か宿泊するようなになった。拙著では、「おばあちゃんが育てた長寿の湯」と題して銭川温泉を取り上げ、「ツマさんにはいつまでも長生きして、この湯を守り続けてほしい」と書いている。そんな経緯があるので、ツマさんと銭川温泉には特別な愛着を持っていた。


数年前から宿は高齢のツマさんに代わって、息子さんのお嫁さんの阿部初枝さんが切り盛りしてきた。初枝さんのお話によると、亡くなったのは10月23日。直接の死因は肺炎ということであったが、91歳というから、天寿を全うしたといえるのではないだろうか。帳場の奥の棚の上にツマさんの写真が飾ってあったので、手を合わせ、冥福を祈った。


オンドル部屋に身を横たえると、22年前に初めてこの宿を訪れた時のことが思い出された。季節は5月。宿のすぐそばを流れる熊沢川の新緑がまぶしかった。自炊部の混浴のお風呂は透明でとろりとした私好みの湯で、八幡平の緊張性の高い湯をめぐり歩いてきたあとだったので、ほっとしたことを覚えている。ツマさんはこのお湯が自慢だった。


「今年になって湯治客がめっきり減った。冬場も続けるかどうか迷っている」と、初枝さんが言う。御主人(ツマさんの息子さん)は10年ほど前に亡くなっているので、今後の銭川温泉の存続は初枝さんひとりの肩にかかっているといっていい。だが、ツマさんが亡くなったこともあってか、さすがに弱気になっているようだ。


確かにここ数年、私が歩いた範囲だけでも、湯治場・湯治宿の衰退が以前に増して目につく。いや湯治宿だけではなく、一般客を対象とした温泉宿も厳しい状況のように見受けられる。休業・廃業する宿も多い。最近では青森県平川市碇ヶ関にある湯ノ沢温泉郷の湯治宿「でわの湯 湯の沢山荘」が先月末で休業したのがショックだった。今年の夏に宿泊して美人の女将さんと温泉談義をした時には、まったくそんな気配はなかったのだが。
八幡平でも先月初め「東トコロ温泉」が休業(事実上の廃業)。「志張温泉」「トロコ温泉」「新鳩ノ湯温泉」も今は営業しておらず、「赤川温泉」「澄川温泉」にいたっては、土石流災害で跡形もなく消滅してしまった。


私にとっての温泉の原点、ホームグラウンドといえる大好きな八幡平の温泉群(特に国道341号沿い)は、私が盛んに温泉行脚をしていた80年代当時と比べると、今は見る影もない。341号沿いで現在営業しているのは、「玉川温泉」と「銭川温泉」だけとは、かつての八幡平の温泉を知っている身にとっては、信じられない思いがする。


景気の低迷が影響しているというが、それだけではなく、温泉産業全体を揺るがすもっと大きな地核変動がジワリジワリ起こっているような気がしてならない。


熊沢川の渓流に沿った「銭川温泉」


今回泊まった自炊棟のオンドル部屋。オンドルが気持ちよくて、ここではいつもぐっすり眠れる


自炊棟の浴室。ホウ酸を含む湯は、かつては眼病に特効ありといわれた


玄関と窓に板が打ち付けられた「東トロコ温泉」。今年(2008年)11月をもって閉館した


※toshibon's essay「山の湯治場めぐり」