Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

東京日記 多摩センターのイルミネーション

12月の東京は街中のいたるところでクリスマスイルミネーションが輝き、さながら光の都の様相を呈する。なので、この季節の東京を歩くのは楽しい。


このたびは東京都下、多摩センター(多摩市)のイルミネーションに行ってみた。
多摩モノレール(乗り物好きなtoshibonではあるが、数ある乗り物の中でもモノレールが一番好きかもしれない)で多摩センター駅へ。多摩センターは多摩ニュータウンの中心地区で、京王線、小田急線、多摩都市モノレール線が乗り入れている。1970年代の中ごろに京王線沿線の府中市に住んだことがあったのだが、当時はニュータウンが開発されたばかり(京王多摩センター駅は1974年の開業)だったこともあって、ここに降り立つのは今回が初めて。


駅を出ると最初にアーチ状の「光の水族館」をくぐる。


駅からパルティノン多摩までの南北全長400mの通り(パルティノン大通り)が、40万球のLEDライトでライトアップされている。


15000球の白色LEDで輝くモミの木。多摩市の友好都市長野県富士見町より寄贈されたものという。


「サンタの森」「おとぎの国」「光の動物園」などのテーマによるトピアリーもなかなかきれい。


奥に小さく見える尖塔は、ハローキティで知られるサンリオのテーマパーク、「サンリオピューロランド」。夜空には十三夜の月が…。


70年代に出現した人工的な街で繰り広げられる光のページェント。ここを歩いている間中、ずっと既視感を覚えていたのだが、それは井上直久の架空の街「イバラード」に似ているからでは、とあとになって気づいた。

東京日記 佃島から霊岸島へ

晴海トリトンスクエアのカフェでまったりしようと出かけたのだが、12月にしては暖かくあまりにいい天気なので、トリトンには入らずそのまま佃島まで足を伸ばしてみることにした。


晴海から朝潮運河にかかる晴月橋を渡って月島へ。月島側の運河に係留されている筏(浮き桟橋)の上に、かつての隅田川に多くみられた水上生活の名残のような木造の小屋が建っていた。未だ水上生活者が暮らしているような雰囲気があり、しばし眺めた。1960年代の初め~中ごろに、NHKで「ポンポン大将」という番組を放送していたことを思い出した。隅田川のポンポン船で暮らす水上生活者を描いたドラマで、主人公が桂小金治(懐かしい名!)。


西仲通り(もんじゃストリート)を通って月島から佃島へ渡る(現在は川が埋め立てられて道路になっているので、渡るのは橋ではなく横断歩道だが)。小船が舫う水路の向こうに見えるのは、石川島播磨重工業(現IHI)の造船所跡地を再開発して出現した大川端リバーシティ21の高層マンション群。まさに異なる階層の人々が混住する街―デュエル・シティの光景。


住吉神社にお参りしてから佃公園を通り隅田川べりに出ると、主塔が高くそびえる中央大橋が見えてきた。対岸は霊岸島(現在の住所は中央区新川1・2丁目)だ。
中央大橋は平成 5年(1993)の架橋で、隅田川の橋梁群の中では2番目に新しいという。バブル時代に造られたせいか歩道が車道と同じくらいの幅があり、経済性・機能性よりも外観を重視した贅沢な造り。ちょうど塗装工事が行われており、主塔や橋桁がシートで覆われていた。画像ではわからないが、橋の中央部橋脚にフランス人彫刻家による「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座している。その由来はこちら


中央大橋から隅田川上流を望む。水色のアーチ橋は永代橋。お昼時ということもあって、河岸のテラスでは近辺のサラリーマン・ウーマンたちが日向ぼっこをしている。なかにはウォーキングしている人も。お昼休みを利用して霊岸島から佃島へ渡る(その逆も)人も多いようだ。東京の勤め人は本当によく歩く。大都会で暮らすほうが、ドアツードアの地方都市人や引きこもりの田舎暮らしよりずっと健康的かもしれない。


霊岸島に渡ると、中央大橋たもとに「霊岸島水位観測所」があった。現在は神奈川県の油壷験潮所にその役目を譲ったらしいが、日本の標高を測る基準となる平均海面(水準原点)を測定していた場所という。


「霊岸島水位観測所」の近くで「江戸湊の碑」というのを見つけた。碑文には「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった」とある。江戸時代の物資の運搬の多くは舟運によるもので、仕事で当時の海運について調べることが多いのだが、ここがもしかして江戸湊発祥の地? ウーン、知りませんでした。


帰りはまた中央大橋を渡って佃島~石川島~月島~晴海のコース。トリトンで一休みしてから、日が暮れるころ、今度は晴海通りを勝鬨橋まで歩いた。


ライトアップされた勝鬨橋。ここも好きな橋。橋の下を通る光の筋―水上バスや運搬船―が美しく、飽かずに眺めた。


勝鬨橋から上流の佃島方面を望む。中央に見える高層ビル群が佃島の大川端リバーシティ21。かすかに中央大橋の主塔が見える。あとで歩数計を見たら、この日はこの隅田川沿いを2万歩ちょっと歩いていた。

「天国」の日々

およそ30年前、20代半ばに四国の高知市に1年あまり棲んだ。その時にとてもお世話になったOさんから「天国のおばちゃんに会った」と電話があった。そのことばだけ聞くと、亡くなった人に会ったと言っているみたいだが、そうではない。「天国」は高知の繁華街にあった酒場の名前で、その酒場のオーナーであったおばちゃんに会ったと言っているのだ。


普通、おばちゃんがやっている酒場といえば客層の年齢が高いのが普通だが、「天国」は20代の若い連中が多かった(私が初めて行ったころは、高知弁でいう「おんちゃん」がやってくる大衆酒場だったのだが、いつの間にか客層が変化した)。高知にいたころの私は今より酒が強く(おまけに人恋しさも強く)夜な夜な街に繰り出して、酒場を2~3軒ハシゴして帰るのが日課だった。行くところはだいたい決まっていたが、中でも一番よく通ったのが「天国」だった。行くと必ず会えたOさんのような(時々お酒を御馳走してくれる)同年代の仲間がいたし、何よりおばちゃんの人柄がよくてコの字型のカウンターに座ると心安らぐことができたから。『天国の日々(Days of Heaven)』(テレンス・マリック監督/1978)という名作映画があったけど、今思い返してみると、高知での日々を形容するのにこのタイトルがまさにぴったりだ。


「天国」のおばちゃんは、現在は東京の八王子市に住んでいて数年ぶりに高知を訪問したとのことで、Oさんも会うのが久しぶりだったようだ。91歳という高齢にもかかわらずお元気で、「天国」に集った若者たち(当時は)のこともよく覚えていて、Oさんもその記憶力に驚いたという。私のことが話にのぼった時、「Nさん(toshibon)がシャツを鋏で切って半袖にしていたのを見て、袖口を縫ってあげたのだけれど、もしかするとあれはファッションでわざとそうしていたのでは。そうだったら余計なことをしてしまった」と言ったという。ところが、私のほうはといえば、そんなことがあったけ?と、すっかり忘れているのだから、どっちが年を取っているのかわからない。


当時は旅の身空で赤貧状態だった。服を買うなら飲み代にあてがうというような生活(くらし)だったので、長袖を鋏で切って半袖に、長ズボンも同じように切って半ズボンにして、高知の暑い夏を乗り切ろうとしていた。それはファッションでもなんでもなく、単にお金がなかったからなのだ。本当に貧乏だったから…。「天国」のおばちゃんは、そんなみすばらしい格好をした私を見かねて、袖を縫ってくれたのだろう。そして、それが余計なことだったのでは、と今に至るまで気に懸けていたとは。うれしいことです。有難いことです。月並みな言い方だけど、「天国」のおばちゃん、どうかいつまでもお元気で、長生きしてください。


※toshibon'essay「高知と私」


上記のessayは、15年ほど前に高知市で自費出版を取り扱っている印刷会社の広報紙に書いたものだが、それには高知県庁前で撮った私の写真も掲載されていて、それをよく見ると、シャツの袖がギザギザになっている。鋏で袖を切ったシャツを着ていたことがこれでわかったのだが、気になって、高知で撮ったほかの写真を探してみると、同じ場所で同じ服を着て、同じようなポーズで撮った写真が出てきた。なんと、よく見ると袖がちゃんと縫われているではないか! これこそ「天国」のおばちゃんが縫ってくれた半袖シャツに違いない。1977年の夏のことであった。

主よ、わが祈りを聞きたまえ

アトリオン音楽ホールで行われた「森麻季&ドレスデン聖十字架合唱団~クリスマスコンサート~」に行ってきた。ドレスデン聖十字架合唱団は800年におよぶ歴史をもち、聖十字架教会の寄宿舎に9歳から19歳(ボーソプラノ・ボーイアルト、テノール・バス)までの少年150人が在籍するという名門少年聖歌隊で、今回は約40人編成での来日。ただし、ボーソプラノ好きの私ではあるが、このコンサートは森麻季さんがお目当てだ。


コンサートは1部と2部に分かれ、森さんは1部にのみ出演。胸元と背中が大きく開いた(というより後ろから見ると何も着ていないように見える)セクシードレスで登場すると、つい大きなバストに目がいってしまうtoshibonであった。確か9月に出産したばかりのはずなのに、TVで見るのとプロポーションは変わらない。森さんの後ろにいる聖歌隊の少年たち、目のやり場に困らないのだろうか、と余計な心配をしてしまう。10代のころのtoshibonだったら、裸同然の背中にドキドキしてとても歌うどころじゃないだろう…。などといつもの妄想癖が頭をもたげる。クラシックのコンサートに来て、こんな下世話なことを考えているとは、我ながら本当に困ったものである。


ところで、肝心のコンサートであるが、もっとも印象に残ったのは、1部でのメンデルスゾーンの「主よ、わが祈りを聞き給え」。曲が長くメリハリがあり、森さんと合唱団の息もぴったりで、洗練された美しい歌声をたっぷり堪能することができた。ただ不満をいえば、コンサートのタイトルでは「森麻季&ドレスデン聖十字架合唱団」と並列しているが、実際は「ドレスデン聖十字架合唱団フィーチャリング森麻季」といった内容で、森さんの出番が思っていたより少なく、看板に偽りあり? もちろん合唱団の歌声は素晴らしいものであったが、もっと森さんの歌声が聴きたかったなぁ。


Mendelssohn: Hör Mein Bitten - YouTube
ハンガリーのブタペストで活動している合唱団Carmine CelebratKórus(カルミネセレブラコルスと読むのかな?)による演奏

盛岡 Loomの想い出

北東北の活性化に関わるある事業の会合に出席するため、盛岡の「アイーナ」に日帰りで行ってきた。「アイーナ」は盛岡駅の西口に数年前にできた複合施設で、正式名称は「いわて県民情報交流センター」。県立図書館を核として、県立大学やNPO関係などいろんな施設が入っている。


会合の開始時間より早めに着いたので時間つぶしのため館内のギャラリーをのぞいてみたら、盛岡スコーレ高校の美術工芸作品展が行われていた。
生徒たちが制作した絵画・デザイン・機織り・染め・刺繍などが展示されていた。

展示自体はささやかなものだったが、ギャラリー入口に置かれていた織機と糸車に目が止まった。


盛岡と機織り。そういえばそうだった。私にとって〈盛岡と機織り〉は記憶の中で密接に繋がっている。今から20数年前の80年代初め、手造りの飲み屋兼喫茶店を開いた時、友人たちと一緒に塗り固めた真っ白な壁を飾るため、盛岡の材木町にあった織り工房にタペストリーを注文したのだった。工房の名は「Loom(ルーム=機)」といい、3人の素敵な女性が織物を制作販売していた(私の店づくりを手伝ってくれた友人は、彼女たちを織姫さんと呼んだ)。


うれしかったのは、完成したタペストリーを届けに、「Loom」の3人の織姫さんたちが私の店にわざわざ来てくれたこと。でも、当時私は本当に貧乏で、確か6万円のタペストリー代金を3回の分割でようやく払ったことを覚えている。
その後も「Loom」とは交流が続いたが、結婚するなどして盛岡を離れる人がいたこともあって、工房も閉じられ、90年代に入ってからは行き会うこともなくなった。
「アイーナ」のギャラリーで展示してあった織機の前で、織姫さんたちどうしているだろう、ふとそう思ったら、なんだかとても懐かしい気持ちになった。
 
「Loom」に特別注文で制作してもらったタペストリー。コンセプトはアイヌ文様。