Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

東京日記 「紫陽花日記⑦」 紫陽花の唄

2高幡不動尊金剛寺でアジサイを見たあと、再び多摩都市モノレール線で立川に出て中央線に乗り換え、阿佐ヶ谷で途中下車。北口のスターロード商店街のはずれにある「善知鳥(うとう)」という酒房に行ったら、違う名前の店になっていた。昨年の同じ時期に訪ねた時はまだ存続していたのに、いつの間に店をたたんだのだろう。


しかたがないので、スターロードを駅の方へ戻ると、「燗酒屋」というよさげな店が目に止まった。のぞくと、ちょうどカウンターの隅っこが空いていた。これは居心地がよさそうと直感し、客となる。アジサイ探勝で歩き疲れたので、まず黒ビールで喉をうるおし、それから、燗酒を注文。山形は庄内大山の「栄光富士」だ。鶴岡市大山は酒づくりが盛んな歴史の古い町。仕事でもプライベートでも何度も訪れている。こんなところで大山の酒に逢えるとは。


小津安二郎の名作『浮草』で、中村雁次郎が杉村春子のつけた燗酒を飲むシーンがあった。季節は真夏。昔の人は夏でも酒を温めて飲んでいた。この季節においしい燗酒を出してくれる居酒屋は、今の時代はかえって貴重なのかもしれない。女将さんがひとりで切り盛りしていて、てきぱきと料理をつくり、酒を出す。直感通りの居心地のいい店だった。


阿佐ヶ谷は懐かしい街だ。私自身は住んだことはないが、1970年代前半のころ、交際していた女の子がこの界隈を根城にしていた。その子と別れたあと、今度は親しくしていた友人がこの北口のスターロードを抜けたところにアパートを借りた。そのためか、ここに来ると70年代はじめの風景がよみがえる。そのころの私にとっては、中央線を走る高架の電車から眺める昼下がりの露出オーバー気味の街並が、東京の風景だった。


阿佐ヶ谷といえば、『ガロ』誌上に、『美代子阿佐ヶ谷気分』という私小説のようなマンガが連載されていたことを、思い出す。作者は安部慎一。(今は「まんだらけ」の社長である)古川益三、(つげ義春、諸星大二郎の次に私の好きなマンガ家である)鈴木翁二とともに「ガロ三羽烏」と呼ばれていたっけ。


つい最近、現在の安部慎一の近況をネット上のインタビュー記事で知った。今は故郷の福岡県田川市に住んでいるという。50年生まれというから、もうすぐ還暦を迎える本人の写真も掲載されていた。記事にもあるように、昨年、『美代子阿佐ヶ谷気分』が映画化された。私は未見だが、あまり見たいとも思わない。若いころの自分の恥部を見るようで、いたたまれなくなる気がして…。


阿佐ヶ谷北口のスターロード商店街。夜になると商店街というより、完全に飲み屋街と化す(それも年代不明の)。
 「燗酒屋」を出て、スターロードを歩いていくと、店先にアジサイを活けている肉屋さんがあった。


すっかりアジサイずいているな、と思いつつ阿佐ヶ谷駅に向かっていたら、ふと、「はちみつぱい」の唄を口ずさみたくなった。


紫陽花の花が
六月の雨に濡れているよ~
だから 窓を開けて
だから 窓を開けて~♪


ムーンライダーズの前身、「はちみつぱい」の傑作にして唯一のアルバム『センチメンタル通り(1973)に収録されていた曲。「薬屋さん」というタイトルだが、私は「紫陽花の唄」と勝手に呼んでいる。紫陽花の唄といえば、もうひとつ、好きな曲がある。♪あじさいの花が ひとつ 咲いていました♪の歌詞で始まるサニーデイ・サービスの「あじさい」。彼らの2枚目アルバム『東京』(1996)の収録曲で、90年代のバンドでありながら、詩と音づくりが「はっぴいえんど」風味というか、70年代テイストを感じさせる。でも、こちらのほうが、より純粋ではかなげで好ましく思う。70年代のセンチメンタルな青春より、90年代のはかなげな青春のほうにシンパシーを抱くのは、なぜだろうか。
(まだまだ続く)


※サニーデイ・サービス「あじさい」
https://www.youtube.com/watch?v=hNC7gGnt93U

東京日記 「オルセー美術館展」

姜尚中(カンサンジュン)氏といえば、昨年からNHK教育TV「日曜美術館」の司会をつとめている。その「日曜美術館」で、妻の手術で東京に赴く前、「夢のオルセー美術館 傑作10選」と題し、いま国立新美術館で開催されている「オルセー美術館展2010―ポスト印象派」の特集をした。それを見て、是非ともこの展覧会を観覧するつもりでいたので、姜氏に出会ったことがことのほか印象に残ったというわけである。


だが、ここで正直に申せば、私はなぜあの番組に姜氏が起用されているのか、その理由がよくわからない。そりゃ、人の好みは千差万別、それぞれだ。(よく聞くとあまりたいしたことは言っていない)ソフトな語り口とものごしに心ときめかせる人がいたって文句はいえない。反対に前任の壇ふみがよかったという人や、私の友人のようにその前のはなさんに”萌え”という人もいる。私はといえば、メイン司会はニュートラルなNHKのアナウンサー、それも斉藤季夫さん(だいぶ前に真野響子と組んでいた)や石澤典夫さんのような男性アナウンサーがふさわしいと思っていたりする。


ところで、「オルセー美術館展」である。
チラシに「モネ、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャン、ルソー、傑作絵画115点、空前絶後」とあるように、まあ、なんというか量、質ともに予想以上に素晴らしく、圧倒されてしまった。
 
展覧会の構成は、次のように10章に分けられている。第1章「1886年―最後の印象派」、第2章 「スーラと新印象派」、第3章「セザンヌとセザンヌ主義」、第4章「トゥールーズ=ロートレック」、第5章「ゴッホとゴーギャン」、第6章「ポン=タヴェン派」、第7章「ナビ派」、第8章「内面への眼差し」、第9章「アンリ・ルソー」、第10章「装飾の勝利」。
 
1章「1886年―最期の印象派」のモネの「日傘の女性」で、もう釘づけになる。10年前の1876年に制作した有名な「散歩、日傘をさす女性」と類似した構図だが、こちらは人物の輪郭がもっとあいまいというか、顔の判別もほとんどつかなくなっていて、すべてが光に溶け込んでいるように見える。モネの絵は、「さすらいのカウボーイ」(1971、ピーター・フォンダ)や「ギャンブラー」(1971、ロバート・アルトマン)など繊細な光の映像表現に徹底してこだわった一部のアメリカン・ニューシネマにも影響を与えたのでは、とふと思った。この絵を見て、モネがますます好きになった。


圧巻はゴッホ7点、ゴーギャン9点が同じフロアに相対して展示されている第5章「ゴッホとゴーギャン」。初めてこれだけのゴッホの絵に直に接すると、これまで見てきた他の画家の絵と何かが違うと直感する。うまくことばで言い表せないが、時を経ても絵具に悲痛な狂気が宿っていて、絵がふるえているように思えるのだ。よく知られた「アルルのゴッホの寝室」、そしてやっぱり「星降る夜」が印象に残った。


ほかにも私のつたない感想など書き連ねる必要がない傑作名作ぞろいなので、まだ観ていない方は、足を運んでも損はないと思う。美術にそれほど関心のない人でも充分楽しめるはず。が、すでに入場者数が40万人を超えたそうで、これから夏休みに入るとますます混雑はひどくなるだろうから、土・日は避けたほうが無難だ。


国立新美術館の内部。1階フロアはカフェ、中央の逆円錐形の上部(3階)はレストランになっている。ここを訪れたのは、開館した3年前の春、「異邦人(エトランジェ)たちのパリ 1900 - 2005 ポンピドー・センター所蔵作品展」を見て以来。

東京日記 「マネ展」

 常宿のある中央区勝どきから順天堂大学病院のある御茶の水までは、バスと地下鉄を乗り継いで行く。東京駅までバスで行き、地下鉄丸ノ内線に乗り換えるのだが、東京駅のちょっと手前でバスを降り、丸の内のオフィス街を南北に貫く「仲通り」を歩いてみる。
妻の仕事場がこの近くにあり、結婚した年の年末、この通りをメイン会場として初めて開催された「東京ミレナリオ」を一緒に見た。以来、毎年クリスマスのころは東京に赴き、供に電飾のイルミネーションを見歩くのが楽しみになった。


ここ10年ほどで、東京駅西側を中心とした丸の内界隈は再開発が進み、大きく変わった。新しいビルが次々と建ち、ますます賑わい洗練された外観を呈している。ここを歩いていると、今私が住んでいるのが、政治の混迷や景気低迷で大変な状況に置かれている国だということを、すっかり忘れてしまう。


この界隈で今、いちばんの話題といえば、今年春に開館した「三菱一号館美術館」だろう。1894年(明治27年)竣工の三菱一号館を、当時の外観と内装そのままに復元し内部を美術館としたもので、開館記念展として「マネとモダン・パリ」展が開催されていたので、迷わず観覧した。


マネは印象派としてくくれないせいもあって、モネやセザンヌなんかと比べて、いまひとつ捉え難いところがある。映画好きの私にとっては、有名な「草上の昼食」がジャン・ルノワール(ルノワールの息子)が撮った『草の上の昼食』(1959)に少なからず関連していることや、ジャン=リュック・ゴダールの『映画史』での「映画はマネと共に始まる」のことばがひっかかってはいたが、画業やその生涯については、よくわからないというのが正直なところ。だから、ひとりの画家に焦点を当てるこうしはた展覧会は、私には眼福プラス新たな発見の場でもある。


平日だというのに、館内はかなりの混雑。もともとオフィスビルとして建てられたため、内部は小部屋に分かれ、絵を見るには狭苦しく感じられる。が、そうした不満は絵を目の前にするとしばし忘れる(とは言っても、絵をまともに鑑賞するためには土・日をはずしたほうが無難だ)。


「草上の昼食」のほか、マネの絵でもっとも知られているといっていい「オリンピア」「笛を吹く少年」などが出品されていないのは残念だったが、今回の展覧会のポスターに使用されている「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」がやはり素晴らしかった。画家でもあったベルト・モリゾをモデルに描いた他の肖像画にも共通している、圧倒的な「黒」に惹きつけられた。
それにしても、油彩、素描、版画が約80点。よく集めたものだ。オープン記念ということで、気合がはいっているのが感じられる展覧会だった。


妻との想い出の道、丸の内仲通り。


復元された三菱一号館。内部は美術館、カフェとなっている。


美術館の中庭といっていい一号館広場。てまり型の白色の紫陽花(たぶんアナベラ)が今を盛りと咲いていた。


美術館を核として、新商業ゾーン「丸の内ブリックスクエア」も誕生した。噴水のある一号館広場をショップや飲食店が取り囲み、ベンチやオープンカフェで近隣のOLさんたちや美術館を訪れた人びとがくつろぐ姿がみられる。なんて平和な光景なんだろう。


美術館2階窓から広場を望む。


「ブリックスクエア」の仲通り側入口角に花屋さんがあり、様々な種類の紫陽花がディスプレイされていた。


妻を見舞った病院からの帰りに再び立ち寄ってみた。人工の光に浮かぶ花は、昼より妖しげで美しかった。

小津の『浮草』=真夏の燗酒

小津安二郎の『浮草』(1959年)は、大映での唯一の作品ということで、厚田雄春ではなくて宮川一夫の撮影、主な出演者は小津組常連ではない大映の役者。それらのコラボレーションが(松竹の)小津調とは異なった雰囲気を発散して、フィルムが妙になまめかしく、いつもの小津映画にはない生きた人間の息づかいが感じられる。
冒頭の灯台と一升瓶(ビール瓶?)を並べるカットに度肝を抜かれ、滝のような雨にあっけにとられているうちに、物語はあっという間に終わりを迎える。黒沢清が言うように、「小津映画は速い」。


松竹のカラー作品より褪色が進んでいないせいか、暖色系の発色に特徴があるアグファカラーの色彩が、真夏の季節と京マチ子、若尾文子の肉感的な肌を美しく見せている。そのせいか小津世界の住人である杉村春子でさえ他の作品と比べるとずっと色っぽい。登場人物たちは真夏でも燗つけて酒を飲む。体感温度の高い映画だ。


それにしても若尾文子を足蹴にする中村雁次郎の暴力描写にはまいった。売り出し中の大映若手看板女優若尾文子を足で蹴るなんて!(原節子には絶対そんなことはできないはず)。この映画を見て原節子の出演する小津映画は、小津の真の欲望を上手に隠している「えふりこぎ」映画かもしれないと一瞬思った。


昨日見た「東京の合唱」もよかった。
岡田時彦演ずるサラリーマンの長女が可愛いな、と思って調べたら、高峰秀子だった。高峰秀子は小津映画ではこれと「宗方姉妹」の2本しか出ていない。「宗方姉妹」では、彼女の個性が小津の型にはまった演技指導からはみ出てしまい、それが小津映画の中では妙な居心地の悪さを生んでいたように思う。「東京の合唱」のほうが、ずっといい(子役の素の演技だから当然か)。
小津映画に出てくる兄弟は、男の子2人の兄、弟がほとんどで(「生まれてはみたけれど」「東京物語」「麦秋」「お早う」など)、この映画のように女の子が出てくるのは珍しいので、特別印象に残った。


小津映画にお決まりの汽車・電車(この映画では路面電車)もしっかり登場するのでうれしくなった。なぜかこの映画を見ていて、アキ・カウリスマキの「浮き雲」を思い出した。路面電車のシーン、失業しての職探しと夫婦の絆、最後に食堂でハッピーエンドを迎えるところなど、似ていないだろうか。

あの頃映画 松竹DVDコレクション 「東京の合唱/淑女と髯」
あの頃映画 松竹DVDコレクション 「東京の合唱/淑女と髯」
松竹
2013-07-06
DVD

こんな風に生きていくのなら

一週間ほど前に浅川マキさんが亡くなったのを新聞記事で知った。名古屋3days公演の最終日、リハーサル前にホテルの浴室で倒れているのが発見されたという。旅公演のさなかの客死は、浅川マキらしいといえば、いえるのかもしれない。


今から25年前の1984年11月、私の店(「Mouchette」)に、公演が終わったばかりのマキさんとバックミュージシャンたちがやってきたことがあった。公演を無明舎出版が招へいしたこともあって、無明舎と親しかった私の店で打ち上げが行われたのだった。


この人の歌を(レコードで)最後に聴いたのは、いつだったろうか。少なくとも20年前に店をたたんでから、聴いたことは1度もなかったように思う。打ち上げの時、店のレコード棚にあったセカンドアルバム、『浅川マキⅡ』のジャケットにサインをしてもらったのだが、訃報に接するまでそのレコードの存在さえすっかり忘れていたのだった。
 

(Mouchetteで書いてもらったサイン。この時、写真も撮ったのだが、どこに紛れ込んでしまったのか、探しても見つからない)


70年代、私のまわりや行く先々で、浅川マキの楽曲がどこでも鳴っていたような印象がある。「かもめ」「夜が明けたら」「こんな風に生きていくのなら」「赤い橋」…。かつて愛聴したこれらの歌を、YouTubeで本当に久しぶりに聴いてみた。なんだかとても生々しくて40年前の歌とは思えない。歌に付随して当時の風景、出会った人々の記憶がよみがえってくるようだ。


ずっとアンダーグラウンド・シーンで歌い続けていたことから、浅川マキを日本のNico(ニコ)という人もいるが、ちょっと違うと思う。私にはブラジルのサンバカンソンとアメリカのトラディショナルフォークと日本の演歌を足して2で割った歌世界のように思える。80年代に山下洋輔、近藤等則らジャズミュージシャンと作ったフリージャズ風の作品よりも、やっぱり初期のころの歌に惹かれるのと、声質が美空ひばりに似ていることがその理由かもしれないけれど。