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髪結いの亭主 物書きの妻

男鹿半島の温泉

男鹿半島には数か所の温泉地があるのだが、男鹿簡易保険保養センターの湯(鵜の崎温泉)が思いがけないことに、昨年春に経営不振から突然閉鎖されてしまった。岩手県の国見温泉とまではいかないまでも、この地域では珍しい薄緑色の硫黄泉で、とてもいい湯だっただけに再開してほしいが、なかなか買い手がつかないようだ。


男鹿半島西海岸にある旧桜島荘(金ヶ崎温泉)は、県営から民間の経営に変わってから入浴料金が800円になった。おまけに無料だった露天風呂も閉鎖されてしまった。


八郎潟を干拓して誕生した大潟村営「ポルダー潟の湯」は、マニア?にはたまらない臭素臭のするチョコレート色の食塩泉だが、残念ながら男鹿半島の温泉ではない。
男鹿市営の「温浴ランドおが(なまはげのゆっこ)」は、公共温泉にありがちな塩素ドボドボ、循環バリバリ。浴室に入ったとたんの強烈な塩素臭に加え、温泉としての浴感がほとんどない。で、男鹿半島の温泉で入浴するとしたらどこかと問われれば…男鹿温泉郷の「湯本ホテル」ということになる。


男鹿温泉郷といっても、正確には近代的で豪華なホテルや旅館が建ち並ぶ海寄りの石山地区と、奥まった海の見えない湯本地区に分かれる。湯本ホテルは湯本地区にある。かつては暢神館という旅館もあったが、現在は湯本集落の中に唯一残る宿である。


湯本地区も男鹿温泉郷としてひとくくりにされているが、戦後に開発された石山地区と違って源泉も歴史も異なる。湯本の温泉が発見されたのは大同年間、坂上田村麻呂東征の時と伝えられ、江戸時代初期には渡部平右衛門家がすでに温泉宿を営んでおり、秋田藩主の佐竹氏が湯浴みしたとの記録が残っている。歴史的には秋田県でも最も古くに開発された由緒ある温泉のひとつだ。
江戸時代の旅の文人、菅江真澄も訪れ、味は塩辛く緑礬の気があると日記に書いている。真澄が訪れたころは15もの浴舎があったというから、相当な賑わいだったことがわかる。だが、今は湯本ホテルが一軒のみ。男鹿温泉の主役の座は完全に石山地区の温泉郷に奪われてしまい、淋しい限りだ。


ホテルとはいっても昔ながらの木造2階建て和風旅館で、周囲の環境もこれといって特徴はないだけに、石山地区の温泉ホテルには設備の面で太刀打ちできない。だから、いつ訪れてもひっそりしていて、大丈夫なのかと少々心配になるほど。でも、お湯はとてもいい。そっけないほど広々とした大浴場(男女別)のプールのような浴槽に、わずかに茶色がかった掛け流しの食塩泉(弱食塩泉)が注がれる。


湯本ホテルの前身は明治期から続く「七兵衛旅館」という湯治宿で、かつては建物の中や前庭から6ヵ所もの温泉が自噴していたという。それが昭和14年におこった男鹿地震で湧出が止まり、現在は地下60メートルまでボーリングしたものを引いているとのことだ。かつて湯治客が押し掛けていたころは子宝の湯と評判だっただけあって、あがってからもなかなか汗がひかない温まりの湯。浴感もしっとりまとわりつくような感じで、近くの“塩素温泉”=「温浴ランドおが」とは雲泥の差がある。


いかにも観光温泉的な外観の石山地区とは差別化を図り、「男鹿湯本温泉」という名称でお湯のよさを前面に出し、かつての湯治宿の原点にかえって歴史の名湯として売り出したらいいのになあ、と訪ねるたびに思う。
それだけの実力が「湯本ホテル」の湯=湯本温泉には十分備わっているのだから。