Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

武蔵府中の思い出

昭和初期から高度経済成長期まで日本中をくまなく歩いた民俗学者宮本常一(1907~1981)が、15歳で故郷の周防大島を離れる時、父の善十郎から十カ条の教えを授けられたという。その教えの内容とは次のようなものである。
ー汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか…。村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ…。時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられるー(以下略)


73年の生涯に合計16万キロ、のべにして4千日におよぶ行程を、ほとんど自分の足だけで歩き、泊めてもらった民家は千軒を越えたというこの「旅の巨人」に、その著作を通して出会ったのは1970年代の中ごろ、東京郊外の府中市においてである。そのころのぼくは大学生でありながら講義にはほとんど出席せず、アルバイトをしながら、東京とその近県をあちこちと引っ越し歩く生活を続けていた。神奈川県鎌倉市、千葉県松戸市と引っ越しを続けていたので、次は武蔵野、多摩地区にでも住んでみようと地図上から選んだのが(武蔵)府中だった。


府中は新宿から京王帝都電鉄京王線の特急電車で20分の距離にあり、大東京のメガロポリスにすっぽり入っているので、駅を降りる前までは単なる衛星都市のひとつのように思っていた。ところが歩いてみると、もともと甲州街道の宿場町として発展し、武蔵総社とも六所宮ともいわれた由緒ある大国魂神社の門前町の顔を持つこの町には、新しく出現した郊外のべッドタウンとは違って古い伝統文化が残っているように感じられた。
大国魂神社の前から京王線と甲州街道に交差して、大木のケヤキ並木が続いている。その並木の素晴らしさを見ていっぺんでこの町が好きになり、神社のすぐ東側にアパートを探しあて、窓からケヤキの杜が見える部屋を借りた。そして隣町の調布にあるT現像所でアルバイトを始めたのである。


T現像所は映画フィルムの現像専門で、ぼくの仕事は映画やコマーシヤルフィルムのラッシュを映写する小さな映写室の映写係。新作映画がタダで見られるので、映画好きのぽくにとっては楽しい仕事であった。そこではいつも映写があるというわけではなかったので、暇なときには映写室で本を読むことができた。大国魂神社の境内には市立図書館があり、ぽくはここを自分の書斎のように毎日利用した。ここで柳田国男や折口信夫、考現学を主唱した今和次郎の全集などを初めてちゃんと読んだのだが、最も頻繁に借りたのは宮本常一の著作であった。


膨大な数の著作の中でも、自分が撮った写真を多く添えて書き下ろした日本発見の旅行記とでもいうべき『私の日本地図』という叢書に一番惹かれた。その叢書の中には「武蔵府中」という一冊があり、それで宮本常一は府中に住んでいることを知ったのもうれしい偶然であった。


「武蔵府中」を読んでから、武蔵野という今は人工的に埋めつくされた広大な台地がパースペクティブな広がりをもちはじめ、様々なものが見えてくるようになった。たとえば多摩川の川沿いの低地から一段一段高くなっていく河岸段丘。この段丘によってできる崖を府中のあたりではハケという古い言葉で呼んでいる。大国魂神社の社殿の裏手は崖になっていて、これが府中崖線というハケだ。崖の高さは10メートル以上ある。古い集落は台地を境にするこの崖線に沿って多く見られるが、それはハケの下から清水の湧くことが多いためだという。ここに縄文時代の遺跡が数多く出土しているのも、縄文人は自然の地形をよく見ていて、住む場所として崖の上を選び、狩猟や魚捕りは崖の下に降りたから。また、府中が早く開けて武蔵の国府が置かれ、大国魂神社がハケの上に鎮座ましましているのも、そこに多摩川があり、ハケがつくられたからなのである。


そして何よりも府中を好きになれたのほ大国魂神社があったからだった。7月20日のすもも祭りには、神社の参道の両側いっぱいに悪鬼を祓うといわれるスモモを売る店が並び、縁起物の烏団扇(からすうちわ)も売られる。アルバイト先のT現像所の映写室の中にも飾ってあった飛ぶカラスを描いた黒い団扇。この団扇であおぐと農作物の病害虫が除かれ、病気も治るという。


25年前のその祭りで買い求めた烏団扇は、以来、数え切れないほどの引っ越しのたびに新居の戸口に飾った。そして今もボロボロになりながら、玄関のドアの上で疫除け用として現役でいる。

烏団扇

(「秋建時報」平成12年12月号掲載)