Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

川渡温泉藤島旅館

(前回の「川渡温泉の馬市」からの続き)
馬市を見学したあと、私が自炊部に泊まった藤島旅館は、川渡温泉で一番古く収容力のある老舗旅館。戦前から馬市にやってくる県の畜産関係のお役人や馬主などの宿泊を一手に引き受けていたという。
昭和5年に大火があり、現在の木造二階建て瓦屋根の建物はその3年後の昭和8年に建てたもの。焼ける前は、宿の裏手にある温泉石神社(お湯神さん)のあたりまで棟が延び、900人~1000人収容できたという。今は最盛期の3分の1の建物しかないというから、当時の規模が知れる。


旅館の敷地内には、樹齢400年を越すオンコの大木が茂る自然庭園(約2000坪)があり、回遊式の池にたくさんのコイが泳いでいる。この中に池の主といわれている長さ1m、重さ25㎏ものコイがいるらしい。
女将さんから聞いた話によれば、一度、尾腐れ病にかかり、尾っぽに穴が開いたが、捕まえて赤チンを塗って放したら直ったとのことで、右の尾に赤い斑点(傷あと)のある黒いコイだという。シャイなので水面になかなかあがってこないそうで、私も池をぐるりとまわって注意深く覗いてみたが、見つけることはできなかった。


真癒(まゆ)の湯と名付けられた大浴場は、地区の共同浴場的に利用されていて、外来入浴は200円の低料金で、朝7時からなんと深夜12時まで受け付けている。やや黄色を帯び硫黄香のある湯は、とてもよく暖まる。昔から脚気川渡といわれてきたが、特に神経痛、関節痛には効能ありという。


自炊部は18室あり、ほとんどの部屋が流し台、ガス付き。南向きの部屋が料金が高い。夜具1日600円。川渡・東鳴子温泉の宿はどこもそうだが、藤島旅館も伝統的に浜(三陸地方)の人たちが湯治に訪れる。だが、その数は近年急激に減少しているのが気がかり。旅籠部(旅館部)には泊まったことがないので、食事や居心地についてはわからない。

動くフォークロア-映画「馬」

1941年(昭和16年)公開の『馬』(山本嘉次郎監督)という映画をビデオで見た。高峰秀子扮する農家の娘が手塩にかけて育てた仔馬との離別をテーマにした作品で、四季ごとに4人のカメラマンを動員し、1年にわたる長期ロケで撮影された写実的な大作だ。同じころに製作された『風の又三郎』(島耕二監督)もそうだったが、東北ロケによる四季の風景が美しい。ひたむきな愛情で馬を育てあげる少女を演ずる高峰秀子も、当時わずか16歳とは思えないほど、演技が自然で説得力がある。


主なロケ地は岩手県の小岩井農場、盛岡近郊、今の滝沢村(田沢湖線の大釜駅が出てくる)あたりであろう。このあたりは「チャグチャグ馬っこ」で知られる馬産地であり、岩手山麓の雄大な風景に恵まれて、この物語にぴったりの場所だ。ただ、雪はあまり降らないので、冬のシーンは山形県最上地方で撮影したようだ。


まゆ玉が飾られた南部曲り屋に、突然訪問する「スネカ」。ナマハゲに似たこの異形の小正月の訪問者は、実は太平洋側の陸中海岸の習俗だが、まあ、『女中っ子』(1955/田坂具隆監督)に出てきたナマハゲよりはデフォルメされていなので、許せる範囲か。
春、雪解けを待ちかねたように路上で遊ぶ子供たちの描写は、雪国育ちの人なら誰もが共感するだろう。お盆の「さんさ踊り」も登場するが、現在の踊りと微妙に違うのが興味深いし、雪の通りに露店が並ぶ市日のシーンの移動撮影は、木村伊兵衛の写真がそのまま動き出したかのようだ。
岩手山麓の雄大な自然風景もさることながら、民俗学の教材にもなりそうな、こうした風俗描写が特に素晴らしい。ひとつだけ難をいえば、長尺すぎる点かな。


原案・演出の山本嘉次郎は、ラジオで盛岡の馬市の放送を聴き、この作品を構想。製作主任(チーフ助監督)の黒澤明とともに東北を取材して回り、脚本に一年を費やしたという。放牧された馬が画面いっぱいに駆け回るシーンなど夏の野外ロケの多くは黒澤が担当したらしい。なるほどその躍動感は後の黒澤映画を予感させるに十分だ。


この『馬』以外の山本監督の作品は、学生のころ東京の池袋文芸座で上映されたエノケン(榎本健一)の喜劇しか見ていないし、テレビ草創期にNHKのクイズ番組の回答者として出ていた時は、知ったかぶりでスノッブなところが子供ごころに好きになれなかった。何よりも戦争協力映画を撮っていたことがその印象を最悪なものにしていたが、黒澤の力が大きいことを差し引いても、なかなかどうしてたいしたものだ。見直した。


冒頭のシーンで盛岡馬検場を舞台にした馬市の場面が出てくるが、この場面を見て、私は10年ほど前に宮城県鳴子町の川渡温泉で見た馬市のことを思い出した。毎年今ごろの季節に「川渡家畜場」で開催されている2歳馬のセリ市なのだが、この映画をその前に見ていたら、セリを見る目も違ったものになっていただろう。

川渡温泉の馬市

つい最近、1941年(昭和16年)公開の『馬』(山本嘉次郎監督)という映画を見た。高峰秀子扮する農家の娘が手塩にかけて育てた仔馬との離別をテーマにした写実的な大作。山本監督がラジオで聞いた盛岡の馬市の実況放送にヒントを得て、東北各地を1年がかりで取材し脚本を書き上げたというだけあって、東北(ロケ地は岩手県と山形県)の農村の四季の移り変わりが、4人のカメラマンによる腰を据えた撮影で美しくとらえられている。


冒頭のシーンで盛岡馬検場を舞台にした馬市の場面が出てくる。この場面を見て、私は10年ほど前に宮城県鳴子町の川渡温泉で見た馬市のことを思い出した。毎年6月下旬の今ごろの時期に「川渡家畜場」で2歳馬のセリ市が開催されているのだが、その市を川渡温泉の藤島旅館自炊部に宿をとり、見学したことがあったのだ。


川渡の馬産の歴史は古く、明治天皇の御料馬を生産するなど「温泉馬」と呼ばれる名馬の産地として知られ、戦前は軍馬のセリで賑わった。最盛時にはセリが一週間も続いたというが、現在は生産農家も減少し、私が見た時は繁殖牝馬のアラブ馬(アングロアラブ)が主で頭数も少なく、わずか1時間ほどで終了してしまった。


藤島旅館自炊部には、馬市で2頭のアラブ馬を売った宮城県宮崎町(馬産地で知られる)の生産者が泊まっていたが、私が部屋に戻った時はすでに帰ってしまい、詳しい話を聞くことができなかったのは残念だった。


聞くところによれば、年々出場する馬が減少していることもあって、昨年、今年とセリ市が中止になったそうである。輸入のサラブレット一色の華やかな競馬ブームの陰で、地味なアラブ馬が飼われなくなっているのは、しかたがないことかもしれないが、川渡温泉の馬市の伝統がこのまま消えてしまうのは寂しい。


・今季のセリ市見送りを伝える「馬市ドットコム」

もと新聞ジャンキーのひとりごと⑴

実は私は数年前まで新聞さえあればどこでも時間がつぶせ、退屈しないという重症の新聞ジャンキーだった。高校は新聞部、大学はマスコミ関係の学部、某新聞社の就職試験を受けて落ちたという恥ずかしい過去も持っている。


喫茶店でアルバイトをしていた学生時代は、その日の不要になった新聞(店でとっていたスポーツ新聞など数紙)をすべて持ち帰り、アパートの一室で酒を飲みながら読むのが日課だったし、ある地方都市に住んでいた時は、仕事を終えてからの帰途、行きつけの飲み屋で新聞を読みながら酒を飲むのが何よりの楽しみだった。一時(いっとき)は、全国紙、地方紙、沖縄の琉球新報の三紙を同時に購読していたこともある(新聞がたまるだけなので、数か月でやめてしまったが)。


そんな私がある全国紙の偏向具合に愛想が尽きて購読をやめてから、以前ほど新聞を読まなくなった。ただ、仕事に有用な記事をチェックするため、地元紙(地方紙)だけは購読している。共同通信が配信している時事・国際関係のニュースと文化欄は、全国紙に比べて質・量が貧弱だが、新聞を読まなくなったといっても、すっかり時事・社会に関心がなくなったわけではないので、量的には調度よい。


で、長崎・佐世保の小6同級生殺害事件について少し。
いたましい事件だが、ことばの持つ暴力性を改めて思った。加害者の女の子のホームページには、クラスメートに対する過激な言葉が並んでいたという。下品な言葉を使うことが、さらに憎悪を増幅させ、ネット上で別人格を誕生させたのではないか。


インターネットでは、人と人とが接触する表の世界と違って自信過剰でサディスティックになる傾向があることは、心理学の面からも指摘されてきた。内(バーチャル)と外(リアル)のバランスをとるのは、実は大人でさえ難しい。
ちょっとした書き込みで激しい怒りを生じた人が荒らしに走り、その掲示板が閉鎖に追い込まれたりするなんて普通に起こっていることで、インターネットにハマった人は誰しも一度や二度経験があるのではないだろうか。そうした時に、アタマを冷やして自分の感情をうまく抑えるのは、大人でもけっこう高度な感情コントロール能力を要する。


私はメールを書く時、相手が気を悪くしないかととても気を遣ってしまう。それは面識のない人だけとは限らず、性格を知っている親しい間柄ならなおさらで、普段電話でならどうってことないやりとりでも、文字で伝えるとなるとその表現方法に気を遣う。それで時々、やりすぎと思えるほど丁寧になったり、まわりくどい表現、かえって慇懃無礼な文章になってしまうことがある。
インターネットでのメールは、感情をうまく相手に伝える(相手から受け取る)伝達手段としては向いていないのでは?と思う。それはコンピューターを使ったコミュニケーションにおける日本語という言語の特質、特異性とも関係しているのかもしれないが…。


この事件での被害者、加害者とも、文集の自己紹介で趣味がパソコンと書いている。小学生でパソコンなんかを趣味にしていちゃだめだ。もちろん、中学生、高校生も。パソコンが趣味だと言ってもいいのは、年寄りだけだ。
退職しての年金生活。他にこれといった趣味も持たず、妻に先立たれた独居老人。引きこもりの年寄りにこそふさわしい。これから誰もが避けて通れない長い長い老後は、パソコンがあるから退屈せずに済む。
私もきっとそんな老人のひとりになるだろう。

庄内の鉱泉宿

庄内の鉱泉宿① 辰ヶ湯温泉
山形県庄内地方の代表的な温泉といえば、すぐに思い浮かべるのは、湯野浜、温海、湯田川といった古い歴史を持つ温泉町だろう。しかし、この三温泉以外は(いわゆる新興の「公共の温泉」は別にして)泉温の低い鉱泉を湧かした規模の小さい一軒宿が多く、県の内陸部と比べると温泉の質、量とも見劣りする。ただ、私は温泉に関しては偏屈なところがあるので、施設が豪華な「公共の温泉」よりも昔ながらの鉱泉宿の簡素さ、普通っぽさのほうに惹かれてしまう。


「辰ケ湯温泉」は松山町役場のある町の中心部から北に1・5キロほど、周囲を杉林に囲まれた山間の地に、ひっそりとたたずむ小さな鉱泉宿。木造二階建て、瓦屋根の宿は、明治41年に建てられたというだけあって、なかなかの風格と味わいがある。文化3年(1806)の開湯というから、歴史の古さでも他の有名温泉地にひけをとらない。 


 随分前のこと、玄関からよく磨きぬかれ黒光りする廊下を通り、風呂場の脱衣場に入ると、中から「最上川舟唄」が聴こえてきたことがあった。
ガラス戸をそっとあけてお風呂場に入ったら、湯舟の中で歌っていた中年の男の人はピタリと歌うのをやめてしまったので、「気にしないでどうぞ続けて歌ってください」と言うと、しばらくして次は「真室川音頭」を歌い始めた。よく伸びるいい声だ。小さな風呂場だからエコーがかかってなおさらよく響く。一緒に歌いたくなったが、そこはこらえてしばらく聞き惚れた。
  
 湯舟を満たす湯の色は乳白色で、硫黄の匂いがする。泉温が12度と低いので加熱しているが、塩分を含んでいるのでよく温まる。療養泉としてすぐれているので、かつては湯治客が多かった。現在も湯治料金を設定し、長期滞在者に便宜を図っている。


庄内の鉱泉宿② 松山温泉観音湯
「辰ケ湯」のある松山町には、もう一軒、私の好きな鉱泉の宿がある。町の最南部、最上川右岸の高台にある「松山温泉観音湯」だ。ここは昭和63年に開業した民間経営の新興温泉だが、これまで2度宿泊している私の経験から、好ましい温泉宿のひとつとして推奨できる。 


その理由としては-地元採用の従業員がきびきび働いていて気持ちがいいこと。館内がアットホームな雰囲気に包まれていること。見晴らしのいい高台に建っているので、お湯に入りながら蛇行する最上川に沿った庄内平野を一望できること(庄内でこんなに眺めのいい浴場も珍しい)。そして何よりも低料金であること…。 


「観音湯」は長期滞在者用の自炊設備などの機能は備えていないが、全体の雰囲気はのんびりゆったりの湯治場然としたもので(そのぶんローカル色が強いが)、内陸部の羽根沢温泉や赤倉温泉の湯治宿に似た雰囲気がある。きっと経営者が温泉好きで商売は二の次という大様な人物なのであろう。


泉温14度の硫黄分を含むアルカリ性泉を浴用加熱。足し水はしていない。源泉は約1キロ先の山中にある。 


庄内の鉱泉宿③ 筍沢温泉滋生館 
松山温泉「観音湯」から直線距離にして南へ約10キロ。羽黒山北側にある筍沢(たけのこざわ)温泉(藤島町)は打撲傷などの痛みに卓効のあることで全国的に名の知られた温泉だ。明治の初めに発見され、営業を始めたという「滋生館」が一軒、緑の木々に囲まれた山合いに建っている。


ここも泉温12度の自然湧出の冷鉱泉(単純硫化水素泉)だが、その効能はヘルニア、骨折、ムチウチ、打ち身、火傷、術後の回復など…。これらの病気やケガで悩む人が訪れ回復していったというので、別名「人助けの湯」「救いの湯」の名がある。 


年間を通じて湯治を目的とした客が途切れることがなく、一般の行楽客より療養の湯治客を優先している。私が日帰り入浴したのは、古い浴室を改築してタイル張りの新浴室に作り替えたばかりのころだった(平成5年)。湧出量に合わせて大きさを決めたというこぢんまりした浴室が、かえって湯治の宿としての確たる姿勢と自信があらわれているように思えた。


現在はお風呂のみの客は原則として受け付けておらず、宿泊も3泊以上という決まりなので、私が入浴したのはその時一度きりである。一緒に入浴していた人たちの話は、もっぱら自分のケガの回復具合についてだったと記憶している。


庄内の鉱泉宿④ 火打崎温泉松林館
最後に紹介する庄内の鉱泉宿は、鶴岡市の西方、大山・菱津にある火打崎(ひうちざき)温泉「松林館」。背後に日本海と隔てる丘陵が連なり、前面に庄内平野の田園が果てしなく広がるロケーションに、木造二階建ての簡素な宿が建っている。 


玄関に入って最初に目が合ったのは、ソファーに座ってクーッと一気に大ビンビールを飲んでいる風呂からあがったばかりのおじいさん。通された部屋は二階の大部屋。襖を閉めて八畳に区切る。うっかりするとここが温泉宿だと知らずに通り過ぎてしまいそうな地味な建物だが、内部は廊下、縁側と部屋が一体となった造りで、思いのほか広々としている。
温泉旅館に宿泊するというよりも、旅行の途中に田舎の親戚の家に立ち寄ったら、泊まっていけとすすめられて、2、3日やっかいになる-といった感じだろうか。


温泉の発見は明治20年という。開業当初から神経痛や皮膚病に効き目がある湯治旅館として近郷の人びとに利用されてきた。泉温16度で浴用加熱。案内書によっては泉質を緑ばん泉、鉄泉と書いてあるが、宿の温泉分析書には、Ph6・7の単純硫化水素泉と記してあった。


「辰ヶ湯旅館」、「観音湯」、「滋生館」、「松林館」。地味ながらも地元の人たちに支持されているこうした鉱泉宿が、庄内にはまだまだしぶとく生き残っているのは、うれしく心強い。