Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

気まぐれに1冊⑦ 沖縄文化論―忘れられた日本

岡本太郎の『沖縄文化論―忘れられた日本』(中公文庫1996年/親本は1972年に刊行)を読んだ時の衝撃は、今でも忘れられない。


1959年、岡本太郎は米軍占領下の沖縄の島々に足を踏み入れ、初めてその文化・風土に出会う。そこで体感した沖縄の本質を、岡本太郎はこの本で「何もないことの眩暈(めまい)」というフレーズで、言い表してみせた。それまで私自身の沖縄、南西諸島への旅と、折口信夫や柳田国男など民俗学者たちの著作を通して感得してきたものと、そのことばがぴたりと重なった。私が衝撃を受け共感したのは、太郎の鋭敏な直感力、単なる美術家の枠を超えた知性と洞察力だった。この人は凄い!


 「何の手応えもなく御嶽を出て、私は村の方に帰る。何かじーんと身体にしみとおるものがあるのに、われながら、いぶかった。なんにもないということ、それが逆に厳粛な実体となって私をうちつづけるのだ。ここでもまた私は、なんにもないということに圧倒される。それは、静かで、幅のふとい歓喜であった。
あの潔癖、純粋さ。―神体もなければ偶像も、イコノグラフィーもない。そんな死臭をみじんも感じさせない清潔感。神はこのようになんにもない場所におりて来て、透明な空気の中で人間と向かいあうのだ
」(『沖縄文化論―忘れられた日本』より)


この文章は、琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話の聖地である久高島、その島第一の聖域であるクボー御嶽(うたき)を訪れた時の印象を記したものだ。ここでの神秘的な体験が、『沖縄文化論』を生んだと太郎のパートナーであった岡本敏子が本書の解説で述べている。私は正直なところ岡本太郎の絵はいまひとつピンとこない。だが、そのことば、文章には大いに心を動かされる。名文だと思う。
(ただし、岡本太郎の著書の多くは口述筆記によるもので、その意味では太郎の旅に同行し、発した言葉を漏らさず書き留めた敏子さんの功績が大きいともいえる。また、クボー御嶽は男子禁制で、島民でさえ普段は近づかない聖なる場所であり、太郎の行動は禁忌破りという問題を孕んでいることも、指摘しておく必要があるだろう)。


15年ほど前に東京青山の岡本太郎記念館で買い求めた「犬の植木鉢」バッジ。
太郎グッズのひとつだが、今は売っていないようだ。


沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)
沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)
中央公論社