Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

パナリ書房のパナリとは?

昨年秋に初めて出店して味をしめたのか、再度古本市に出店した。前回は青空古本市だったが、今度は城址公園のお堀端に建つ市の文化施設が会場。さして広くないフロアに、16店もがサークル状に並ぶなか、toshibonの「パナリ書房」の店構えはというと、こんな感じ。↓


前回はマンガ(主に70年代~80年代の少女マンガ)がメインの品揃えだったが、今回はジャンル別に―マンガ本、映画本(DVDも)、アイヌ関連本、郷土の本、ジオパークの本、画集・図録―と6つのジャンルに分けて陳列してみた。


この中では、映画とアイヌ関連本にレアものを多く出品。開場してすぐにビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(1973)と「エル・スール」(1983)の映画パンフレットが売れたのには驚いた。それと今回の目玉商品、リブロポートから出ていた『小津安二郎東京物語』、アイヌの文様の図録なども結構な値段をつけたのに、ほどなく売れてしまった。ウーン、手放すのおしいな…(だったら出品しなけりゃいいのに)。


ちょうど桜の季節で、城址公園への花見客が立ち寄ったこともあって来場者が途切れず、前回の古本市の2倍以上の売上があった。
お客さんと本を介して映画とマンガ(特につげ義春、大友克洋)の話ができたのは楽しかったけど、エドワード・ヤンの台湾映画「ヤンヤン夏の想い出」(2000)の映画パンフ(男の子が表紙)を目立つように置いていたのに、手を触れる人が皆無だったのは、ちょっと残念だったかな。


ちなみに「パナリ書房」のパナリとは、沖縄ことばで「離れ」という意味で、八重山諸島にある新城島(あらぐすくじま)をそう呼んでいる。80年代の初めに沖縄の旅から帰ったtoshibonが開いた喫茶店の名を、40年後にこんなふうな形で復活させるなんて思ってもみなかった。


「パナリ」の扉(1983)

新城島(国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより)
上地島と下地島の2つの島からなることから離れ島=パナリと呼ばれている。
上地島の豊年祭では来訪神とされるアカマタ・クロマタが登場する。

アイルランド、旅の想い出(2002)

    アイルランド島の内陸部を西から東へ走り続け、ダブリンへあと40~50キロ、1時間くらいで着くというところにキルコックという街があった。ただ通り過ぎるつもりで車を乗り入れたら、おりしもサマー・フェスティバルの真っ最中。街の広場でダンス・コンテストが行われており、車を降りて私たちも大勢の観客にまぎれ、陽気なお祭りの雰囲気に浸った。
 仮設ステージ上の生バンドの演奏に合わせ、十数人の男女がペアになったり、3~4人の組になったりして、アイリッシュ・ダンス独特のステップを踏む。アイリッシュ・ダンスといえば日本公演も行われたリバーダンスが有名で、確かにダンスパフォーマンスとしては素晴らしいが、あれは伝統ダンスをアレンジしてショー風に振付けたもの。たとえて言えば、WZのソーラン節のようなものだ。
 ショー化されたダンスやパブで聴く生演奏とはまた違った、日常生活に根ざした庶民的な音楽と踊り。車での短い旅の最後の最後に、アイルランドの人々の飾り気のない明るく楽しげな姿、アイリッシュ・ミュージックの原点のようなものを見ることができ、本当に感動した。
 街を流れる運河に沿ったレストランの前で、高校生くらいの少年少女たちがアコーディオンを奏でていた。軽快なリールのリズムが心地よく響く。7日間のアイルランドの旅で、通りすぎただけなのに印象深い街…ポートラッシュ、デリー(ロンドンデリー)、ドネゴール、ウェストポート…、そしてこのキルコック。できるなら一泊して住人とともにお祭り気分を共有したい。そんな去りがたい思いを抱きつつ、街を離れた。女の子の弾くアコーディオンの音色が、街を出てからもしばらく耳に残った。


アコーディオンを弾くキルコックの若者たち

気まぐれに1冊⑨ 『銭湯の女神』

東京都文京区では、「シニア入浴事業」という区民サービスを実施している。65歳以上の区民が、区発行の「シニア入浴カード」を区内4か所の公衆浴場(銭湯)に持参すると、1回100円(通常480円)で、年52回(月4回程度)利用できるというもので、文京区民である妻は、今年に入ってこの入浴カードを利用して銭湯めぐりをするようになった。コロナのせいで仕事が減ったのと、身内の世話から解放され時間に余裕ができたことも関係しているが、妻はもともとお風呂好き、温泉好きで、最近はとんとご無沙汰しているが、かつては一緒に東北の湯治場めぐりの旅をしたものだ。


「東京銭湯マップ」文京区


銭湯好きの女性といえば、思い出すのが『入浴の女王』(1995年/講談社)の杉浦日向子(1958~2005)と『銭湯の女神』(2001年/文芸春秋)の星野博美(1966~)。
この2冊を読んだ当時、あるところに―『銭湯の女神』は、作者が香港帰りで東京でファミレス通いしながら書き上げたところが、まさに女版・山口文憲(『空腹の王子』+『燃えないゴミの日』)といった感じ。観察がこまやかで文明批評的なその眼差しには共感できるところがあって、なかなか読ませる。ただ、ちょっと自己中心的な面もあるかな。杉浦日向子のほうは全国の銭湯めぐり&酒飲み遊覧記なのでお気楽に読めるけど、星野博美のほうは読後感がちと重い。もっと、お湯にゆらゆら身をゆだねて肩の力を抜いてもいいのでは―
と、“あんた何様”的な書評らしきものを書いた。


あれから20年。星野博美はノンフィクション作家として実績を積み重ね評価も高く、新刊が出ると読んでみたくなる気になる存在となった。ただ、内澤旬子もそうだけど、フリーランスで生きてきた女性のノンフィクションライターは一冊の本をものするのに、身を削って自分をさらけ出す感があって、そのヒリヒリ感にたじろぐ時がある。筆力と相まってそこがウリだといってしまえばそれまでだが。ホームタウンである戸越銀座の日々を綴った『戸越銀座でつかまえて』(2013年/朝日新聞出版)なんかも、同じくよるべなきフリーランスの身(=toshibon)として共感を抱きつつき、『銭湯の女神』と似たようなモヤッとした読後感があって、それがこの人の持ち味であり、ちょっと苦手なところでもあるのかな、と思ったりする。

きまぐれに1曲⑱ 遠い音楽

古いカセットテープを整理していたら、なかにZABADAK(ザバダック)の『遠い音楽』(1990年)があった。1985年にデビューしたというZABADAK は、吉良知彦・上野洋子(それに数人のサポートメンバー)によるユニットで、『遠い音楽』は5thアルバムだったが、私が聴いたのはこのアルバムが初めてだった。その頃(1990年当時)私がやっていた喫茶店兼飲み屋の常連客が持ってきたCDから録音したもので、店内でよく流していた。が、その半年後に店を閉めたこともあって、これ以外のアルバムも聞くことのないまま、他のカセットテープと一緒に段ボール箱の中に眠っていたのだった。


久しく聴いていなかった『遠い音楽』(作詞:原マスミ 作曲:吉良知彦)は、とても懐かしく感じた。それで、YouTubeで探したら、アルバム標題曲「遠い音楽」の発売当時のPVがあって驚いた。遅ればせながら上野洋子をここで初めて目にしたのだけど、「遠い音楽」という曲名に上野の容姿と歌声がマッチして心に響いた。



Zabadak - Tooi Ongaku PV


標題曲だけでなく、アルバムの他の曲も統一感がとれていて、とてもいい。
「harvest rain(豊穣の雨)」(作詞:小峰公子 作曲:吉良知彦)


1993年に上野が脱退後も吉良は活動を続け(2016年に亡くなったが)、現在も吉良の妻だった小峰公子(上記のスタジオライブのサブボーカリスト)とサポートメンバーなどがZABADAKとして活動を続けているようだ。
(敬称は略しました)

「鞍馬天狗」と「バットマン」

時々アクセスするテシさんというイギリス滞在中のイタリア人女性のYouTubeチャンネルを見ていたら、ロンドンの街をマスクをして歩いている彼女に、すれ違った男性が「マスクを外せ!」と声を放つ動画があり、彼女と同様にちょっとした恐怖感を覚えた。欧米人にとってマスクがこれほどまでに抵抗感があるという理由は何だろうか。


欧米における新型コロナ感染拡大とマスク着用の関連を考察した別のチャンネルのコメント欄に、米国で暮らしたことのある日本人の書き込みで、「自分の気持ちを目で表そうとしても反応が無かったけど口で表したら理解してくれるようになった。おかげで帰国した後も話すときに口元を大げさに動かす癖がついてしまった」というのがあった。
さらに「米国や欧州でマスクが嫌われているのが、表情がわからない、言葉でハッキリ言ってほしいという思いがあるなら、それも納得できる」「日本人は目元、欧米人は口元を見て感情を読み取ろうとする、っていうのが顔文字にも反映されている」「欧米などにおいてマスクを付けることは、日本人にとってサングラスを付けているのと同じで表情を読み取るのが困難ということと、マスクによって個性が隠されている、個人の自由が抑圧されている様に思うのもあるのでは」「以心伝心とか目礼、微妙な視線といった日本人にしか分からない繊細なコミュニケーションスキルが、マスクを文化として容易に受け入れさせている」という指摘があり、なるほど、と思った。


なかでも共感したのは―「バットマンやキャプテンアメリカとか、他にもいろんなアメコミヒーローがどんな変装しようと口元を隠さないのがいい例。欧米人にとって口元を隠すという行為がどれほどありえないかがよくわかる」
確かにその通りで、映画における「バットマン」、「アベンジャーズ」のキャプテンアメリカ、「ロボコップ」なんかは、まさに「目元隠して口元隠さず」(反対に悪である西部劇の列車強盗や銀行強盗は口を布で隠すのが定番スタイル)。全身鋼鉄?なのに口の周りだけが無防備のロボコップなんか、口元を狙って撃てば簡単に殺られるんじゃぁと、映画を見ていて何度思ったことか。それに反して日本の時代劇ヒーロー「鞍馬天狗」は、なぜか口だけを申し訳程度に隠している。「月光仮面」はサングラスをしてはいるけど、口と鼻を白い布でこれでもかというくらい覆っていて、これぞマスクというイメージ。面白いのはハリウッド映画でも、日本発祥の「ニンジャ」となるとさすがに口を隠す(笑)。


さらに映画関連でこんな指摘もあった―「ハンニバルの映画だったかな、拘束具としてのマスクをつけているポスターがあったね。欧米人にはマスクにはあのイメージが付きまとうんだろうか。不織布で拘束なんてありえないけど、意識に深く突き刺さっているのなら苦手意識は簡単に克服できないかもね」。「羊たちの沈黙」「ハンニバル」のレクター博士の強烈なマスク姿が、マスク拒否の潜在意識としてあるというのは、あながち的外れではないのかもしれない。