Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

まほろば唐松 薪能

昨夜、大仙市協和の「まほろば唐松(唐松城)能楽殿」で行われた薪能を観た。唐松城能楽殿は、平成2年(1990)に旧協和町が京都の西本願寺北能舞台にならって建設した秋田県内初の本格的な能舞台で、毎年2回、6月上旬に薪能、8月下旬に定期能の公演が行われている。  


もう15年も前になるだろうか、定期公演が始まったばかりのころ、ある女性に薪能のチケットがあるから一緒に行かないかと誘われたことがあった。そのころは能そのものにあまり興味がなかったうえ、彼女のスノッブな物腰に反感を覚えたので断ってしまった。能を観に行く女性をスノッブだと思うなんてまったく笑止、バカ丸出しだが、今思うと自分の無教養なところを知られるのがきっと恥ずかしかったのだろう。昔も今もまったく嫌(や)な奴ではある。


そんな私がここ数年、どういうわけか能に惹かれ、NHK教育TVで放送される能・狂言の番組をよく観るようになった。以前から小津安二郎、成瀬巳喜男、黒澤明など巨匠たちの映画には、能が重要なモチーフとして登場するものが何本かあって、ずっと気になっていたのだが、一番のきっかけはTVでたまたま我が子を亡くした狂女物の代表的傑作『隅田川』を観て、その哀切さに心を揺さぶられたことによる。


「能の特徴は数多いが、中でも重要なのは“死者”が能の中心となっているという点である。八世観世銕之丞は能の大きな特徴として“死者の世界からものを見る”という根本的な構造を指摘している。すなわち、能においては多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)であり、常に生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出すという構造を持っているのである」(「Wikipedia」より)
若いころと違って、肉親の死を経験し、自分自身も歳を取り、私もようやく能独自の美の世界(=死者の世界)が身近なものとして感じられるようになったということなのだろうか。


そんなわけで、今回が初めてのナマでの能楽鑑賞となった次第。秋田で本格的な能楽堂はここだけなので、年2回の公演はいつも盛況らしく、会場は満席の入り。演ずるのは観世流能楽師の中森貫太師一行で、演目は『籠太鼓』(能)、『魚説教』(狂言/大蔵流)、『鵜飼』(能)。正直言って私のような初心者は、あらかじめストーリーを把握し、台本を読んだうえで鑑賞しないと、内容がよく理解できないところがある。だが、能面・装束の美しさ、演者の動き、謡・笛・太鼓の響き、それらが一体となって視覚と聴覚を刺激するので、何を言っているのかわからなくても、舞台にぐーっと引き込まれていく。能楽堂は高台にあるので、舞台の右に緑の木々と空が広がっている。それが時間の推移とともに徐々に翳っていくのだが、その背景も含め能舞台を中心にして醸しだされる空間、場の雰囲気に酔った。開演が5時30分で、終わったのが8時過ぎ。あっという間の3時間だった。


途中でやむが、開演のころはあいにくの雨で、前列の観客は雨ガッパを着用。


能楽殿の背後に唐松神社の杜(もり)が広がる。時々、上演中の舞台から視線をはずして、雨を吸って鎮まる新緑の木々を眺めた。