Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

東京日記 佃島から霊岸島へ

晴海トリトンスクエアのカフェでまったりしようと出かけたのだが、12月にしては暖かくあまりにいい天気なので、トリトンには入らずそのまま佃島まで足を伸ばしてみることにした。


晴海から朝潮運河にかかる晴月橋を渡って月島へ。月島側の運河に係留されている筏(浮き桟橋)の上に、かつての隅田川に多くみられた水上生活の名残のような木造の小屋が建っていた。未だ水上生活者が暮らしているような雰囲気があり、しばし眺めた。1960年代の初め~中ごろに、NHKで「ポンポン大将」という番組を放送していたことを思い出した。隅田川のポンポン船で暮らす水上生活者を描いたドラマで、主人公が桂小金治(懐かしい名!)。


西仲通り(もんじゃストリート)を通って月島から佃島へ渡る(現在は川が埋め立てられて道路になっているので、渡るのは橋ではなく横断歩道だが)。小船が舫う水路の向こうに見えるのは、石川島播磨重工業(現IHI)の造船所跡地を再開発して出現した大川端リバーシティ21の高層マンション群。まさに異なる階層の人々が混住する街―デュエル・シティの光景。


住吉神社にお参りしてから佃公園を通り隅田川べりに出ると、主塔が高くそびえる中央大橋が見えてきた。対岸は霊岸島(現在の住所は中央区新川1・2丁目)だ。
中央大橋は平成 5年(1993)の架橋で、隅田川の橋梁群の中では2番目に新しいという。バブル時代に造られたせいか歩道が車道と同じくらいの幅があり、経済性・機能性よりも外観を重視した贅沢な造り。ちょうど塗装工事が行われており、主塔や橋桁がシートで覆われていた。画像ではわからないが、橋の中央部橋脚にフランス人彫刻家による「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座している。その由来はこちら


中央大橋から隅田川上流を望む。水色のアーチ橋は永代橋。お昼時ということもあって、河岸のテラスでは近辺のサラリーマン・ウーマンたちが日向ぼっこをしている。なかにはウォーキングしている人も。お昼休みを利用して霊岸島から佃島へ渡る(その逆も)人も多いようだ。東京の勤め人は本当によく歩く。大都会で暮らすほうが、ドアツードアの地方都市人や引きこもりの田舎暮らしよりずっと健康的かもしれない。


霊岸島に渡ると、中央大橋たもとに「霊岸島水位観測所」があった。現在は神奈川県の油壷験潮所にその役目を譲ったらしいが、日本の標高を測る基準となる平均海面(水準原点)を測定していた場所という。


「霊岸島水位観測所」の近くで「江戸湊の碑」というのを見つけた。碑文には「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった」とある。江戸時代の物資の運搬の多くは舟運によるもので、仕事で当時の海運について調べることが多いのだが、ここがもしかして江戸湊発祥の地? ウーン、知りませんでした。


帰りはまた中央大橋を渡って佃島~石川島~月島~晴海のコース。トリトンで一休みしてから、日が暮れるころ、今度は晴海通りを勝鬨橋まで歩いた。


ライトアップされた勝鬨橋。ここも好きな橋。橋の下を通る光の筋―水上バスや運搬船―が美しく、飽かずに眺めた。


勝鬨橋から上流の佃島方面を望む。中央に見える高層ビル群が佃島の大川端リバーシティ21。かすかに中央大橋の主塔が見える。あとで歩数計を見たら、この日はこの隅田川沿いを2万歩ちょっと歩いていた。