Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

孤独癖

時々覗くパスカル氏のブログに次のような文が載っていた。
「相手を理解し相手から理解されたいと、切実に思えばこそ、人は孤独を知るのである。孤独は人間と人間との関係に発生するのであって、人間のいない山里に隠れ住む心理は、孤独とは別である。孤独は独居ではない。むしろ人は孤独を避けるために、山中に入って隠棲者となるのであり、現代なら山へ行く代わりに、仲間や同僚や知人との深い交際を絶って、社会的隠棲者となる」(西尾幹二『人生の深淵について』より)


「孤独は独居ではない。人は孤独を避けるために、山中に入って隠棲者となる…」
けだし名言だと思う。真に孤独を好む者はきっと隠棲者にはならないだろう。


20代のころ交際していた女性に「あなたはすぐひとりになりたがる」「人を邪魔にする」といわれたことがある。そうした私の性向を、彼女は「孤独癖」ということばを使って指摘した。自分では特別意識していなかったのだが、いわれてみればそうかもしれないと思った。「癖」というのは、自分ではよくわからないものだ。


「孤独癖」という言葉は広辞苑、大辞林などの辞書には載っていない。が、web検索してみると617,000 件ものヒットがあり、Hatena Questionに「孤独癖のある人は寂しいと思うことはないのですか?」という質問があった。なかに「孤独癖がある人は、ボーっとしているか、何かをジーっと見ていることが多いと思います」と回答している人がいて、その通りだと思った。私がまさにそんな「癖」を持った人間なので。


20代から40代までアパート住まいだったのだが、そこでは部屋の窓から見える木々、川の流れ、空の雲、屋根を打つ雨、それらを見つめて何時間もジーっとしていることが多かった。その間、アタマの中はわけのわからない想念(夢想、空想、妄想)が浮かんでは消え、消えては浮かび…。ふっと気づくとアタマの中はからっぽでいつの間にかあたりが薄暗くなっていて…


居酒屋やカフェでも、カウンターよりテーブル席で、それもひとりで誰とも会話せず飲むのが好きだ。客で混み合っているにぎやかな店ならなおいい。雑踏の孤独が愉しい。誰にも邪魔されず、店内の壁や天井や品書きや働く人や窓の光をぼんやり眺めながらボーっとしていると、陶然としてきて気持ちよく酔える。温泉宿へ行っても、風呂にも入らず部屋で寝ころんでただボーっとしていることのほうが多い。おそらく無為な時間がないと生きていけないタイプの人間なのだろう。単にわがままなだけの偏屈人間なのかもしれないが。


web検索で萩原朔太郎の「僕の孤独癖について」という随筆も見つけた。子どものころは社交的だった?toshibonとは違って、同じ「癖」でも随分深刻で辛そうだ。ただ、離婚後の独身生活(朔太郎は2度の離婚を経験した)について書いた別の随筆に、「妻がよく言った僕への不満は、何を言っても張合いがなく、無頓着にぼんやりしていることだった」とあるのは、とてもリアルで身につまされる(!)。