Toshibon's Blog Returns

髪結いの亭主 物書きの妻

追憶の京都「彷徨館」

『ウンタマギルー』(1989)の高嶺剛監督に1度だけ会ったことがある。


1975年の夏だったろうか…。京都の百万遍交差点のそばに「彷徨館」という名の喫茶店があり、そこで私がつくった8mmフィルムの上映会を催したことがあった。上映までのいきさつについては、よく覚えていない。たぶん、「彷徨館」がインデペンデント・フィルムの上映の場を提供していて、それを何かで知った私がオーナーに申し込んだのだと思う。


上映会は夜、観客は京都に住む私の友人を含めてたったの3人。そのうちの1人が高嶺氏だった。私の作品(と呼べるほどのものではない)は、原将人(正孝)の出来の悪い模倣といったものだったのだが、高嶺氏はそんなジャンク・フィルムに1時間半もつきあっただけでなく、上映終了後に感想(正確には撮影に関する技術的なアドバイス)まで述べてくれた。


 当時、高嶺監督は最初の長編映画『オキナワン ドリーム ショー』(1974)を発表したばかりで、才能豊かなインディーズの監督として注目され、自主映画界では「東の原、西の高嶺」といわれていた。当然、いっぱしの8mm映画作家!?を気取っていた私などにとってはアイドル的存在。多分、神妙な面もちで聞いたのだと思うが、アドバイスの内容は「カットの繋ぎが雑だ」と言われたこと以外、全く覚えていない。


 ただ、そのあと「彷徨館」のオーナーからビールをおごってもらい、店を出てから友人とビアガーデンで生ビールをしこたま飲んだ記憶だけはなぜか鮮明だ。ビアガーデンに吹く夏の京都のなま暖かい風の感触と街のネオン…。


 それにしても、70年代の初めから中ごろにかけての京都、市電が撤去される前の京都には、解放感と虚脱感、希望と虚無がごちゃまぜになったような独特の雰囲気があった。


 高嶺監督は石垣島出身で那覇で思春期を過ごしたといっても、映画の思索(試作)のための本拠としたのは国費留学生というエリートとして赴いた京都であった。その京都からフィードバックさせて沖縄を見ている。そのため本土から沖縄に入り込んだ中江裕司(『ナビィの恋』、『ホテルハイビスカス』)のような、ストレートな心情が伝わる(わかりやすい)沖縄映画とは異なり、どこかねじれている。だが、そのねじれに私は共感する。



 「彷徨館」で私のジャンクな8mm映画を見たことなど、高嶺氏が覚えているはずもないが、私にとっても後に『ウンタマギルー』を撮った映画作家と会ったことは、今となっては原将人の『初国知所之天皇』のセリフではないが-「まるで映画を見ているよう」な出来事、70年代の幻のように思える。


※高嶺剛最新作『変魚路』公式サイト
http://www.cinematrix.jp/hengyoro/
日本のドキュメンタリー作家インタビューNO.20
http://www.yidff.jp/docbox/22/box22-1-1.html